shobogenzokandoのblog

This blog presents Kando Inoue roshi's activities, mainly his dharma talks of shobogenzo in English. Kando is the top advocate of shobogenzo by Zen Master Dogen.

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_04 _01
梅花 Ⅴ_04 _02
梅花 Ⅴ_04 _03
梅花 Ⅴ_04 _04

えーそれからもうひとつ、太原の孚上座のお話が、悟道の時に作った詩が出てきます。昔は、悟る前は「憶昔当初未悟時(憶昔当初未悟の時)」角笛ですね、胡笳って言う。

胡笳の一曲「六律にかなわず」って言う事があります。人が亡くなった時、喪狩り笛を吹くと言う様な事かね。ああ言う時の喪狩り笛(蘆の草笛)はですね。音階に例えば、ドレミファソラシドの音階とか色んなものがある。琴なんか六律ですね。六段階の音。いずれにしても、そう言う音階に載せる事の出来ない様な悲しい響きを為すと言う意味ですね。これも多分そうですよね。

「一声画角一声悲(一声の画角一声悲なり。)」どういう事を言いたいかって言うと、響いている音だけでなくて、その響いてる音を耳にして、自分で色んな事をそこに思い起こして、悲しさを募らせていくって言う事がある。芭蕉葉上愁雨なし、ってありますが、芭蕉の葉っぱの上に雨が降った時に、憂いを含むと言う事は無いって言う句ですね。芭蕉葉上愁雨なし。だけども、時の人聞いてあたかも、ハラワタを立つ、断腸、その芭蕉の葉っぱの上に雨が、こう降ってる音を聞いて、人の別れを思った時に、いたたまれないほどになるって言う句なんですね。それ皆人間の感情の話でしょ、情感。

ここも、未悟の時って言うのは、本当にその笛の音をそのまま聞くって言う力が無かったと言う事です。笛の音にはですね、悲しいとか楽しいとかって言う風になってないですよ。それがわかりますかね。聞いた人が自分の聞き取り方の上で、悲しい声に変えた、変えるんですよ。

食べ物でもよく話すように、食べ物にうまいまずいは無いんです。その味がするばかり。だけど、その味がするばかりだけど、その味がするばかりじゃなくて、自分で美味しいとか不味いとかって言う風につける。花を見てもそうです。花が美しいとか汚いって言う風に花は咲いていません。その通りに咲いているだけです。だけど、それ見た人が、美しいとか汚いとかって言う風につけてる。そこら辺の事、私達は結構曖昧なんですね。ちゃんと見てるつもりなんだけど、ちゃんと触れてるつもりなんだけども、そうじゃない。自分というものが知らないうちにそこに入ってる。

仏道をならうというは自己をならうなし、自己をならうというは自己をわするるなりとあります。さっきも話したけど、自分の本当に無いもの、それ自体に触れている、付け足しもしないし、取り除きもしない、一切手をつけず、その事実だけで本当にその事実がどうなってるかって言う処に、こうやって触れるって言う事を、私達は結構してません。だから花を眺めると、美しいとか汚いとかすぐ談ずる。食べると美味いとか不味いとかって言う事の方が先なんです。その前に、そう言う事の入らない味わいって言うのがあるでしょう。事実があるでしょう。何人も犯す事の出来ない、峻厳、微動だにもしないほど確かな事実がそこに展開されているでしょう。

だから法が大事にされるんです。法をみるものは、仏を見るんです。初めっから人の上の教えじゃない、仏法って言うのは。仏様の教えです。人間の教えじゃない。同じですよ、人がやってるには違いないんだけども、人間の上に、自分らしいものを通して触れていく事と、そう言う事一切なしに直に触れている在り様との違いがある。そこには迷いも苦しみも無い程確かな事が展開されている。それを自分で見届けると豊かになるでしょう。ああ本当に大丈夫だと、このままで。

ここは転句のとこで、「如今枕上無閑夢(如今枕上閑なる夢なし)」今はそんなもてあそぶ様な事はしてない。本当に。ここでは「一任梅花大少吹(一任す梅花大少に吹くことを)」って。ここで吹くっていうのは、笛にかけてるんでしょうね。笛も吹くと言いますから。本当は咲くと言う意味でしょ。縁という意味と殆ど同じです、吹くと言うのは。本当にその梅の花の咲いている様子に無条件で触れている。確かさと言っていいでしょう。今までの疑義が全部っ飛んでしまう位、凄い確かさがそこに展開されているって言う事を、自分の悟った時の様子として詠ったんでしょう。

それで、475頁にその孚上座の事が、所謂夾山の典座に開発せられて大悟したという因縁のものが、補注に出てます。475頁の補注です。孚上座はもと、とあります。

ざっと見てみると、「大原孚上座、揚州光孝寺にありて涅槃経を講ず。」「孚上座はもと講者なり」とありますように、涅槃経の講釈を、内容を講義をしてる人だったと言う事ですね。「游方の僧あり即ち夾山の」ですね。旅をしているお坊さんがおられて、たまたま、涅槃経を話している時に、そこに足を止められた。それは雪が深くてですね、雪にはばまるとあります。寺にありて、だから雪が深くなったもんだからしょうがない、そこに泊まる事になった。そして泊まった時に丁度、この孚上座がですね、涅槃経の話をされていたので、ご自分もそこに連なって、お話を聞いたと言う事です。

それで、話がどんどん進んで行く。「講すること三因仏性、三徳法身」そう言う所に、涅槃経のそう言う所になって、その講釈をしておられるでしょうね。「広く法身の妙理を談ず」。「典座忽然として失笑せり」孚上座が話をしているのを聞いて、思わずこの夾山の典座という方がですね、失笑だから、笑ってしまった。人が真面目に話してる時に、クスって笑うって言うのは、凄いまあ失礼な事かも知れない。或いは喋ってる方としては気になるね。もの凄い気になる。「孚、乃ち目顧して」目で顧みて、その笑った方ちょっと見た。お話が終わって、その夾山をお呼びになった。「講罷りて禅者を請ぜしむ」

まあ、何処からお見えになったとかって言う様な事で、お話になるのですよ、向き合って。その中で問うて「某素智狭劣、文に依りて義を解す。適来講次、上人失笑せらる。某必ず短乏せらるる処あるべし。請ふ、上人説かんことを。」私は話はしてるけども、本当は大した者じゃない。かろうじて、そこに言葉があるから、その言葉を解釈をして話している。そうしている中で、あなたが笑われたから、私の話を聞いて笑われたから、きっと何か私の話している中に、問題点があるんだろうと思うんで、どうぞ、そう言う間違った処があったら教えて貰いたい、指摘をして貰いたいって言って話してます。偉い人ですね。普通話をした人は、人がそんな事言ったら、黙って聞けって言う位、怒りとばすかも知れないけど、自分の事よく知っておられる。

それで典座曰く、「座主問わずんば敢えて説かじ。座主既に問ふ、即ち言わずんばあるべからず。某実に是れ座主の法身を識らざるを笑ひしなり。」私は別に失礼な事をした訳じゃない。あなたが話した、法身の話を色々解釈されているのを聞いていて、全くこの方は法身という事を知らないなあって言う事があって、それでつい笑ってしまったって、こう言ってます。あなたがその様に私を、私が笑ったのを見て、こうやってお招きして、それが私のどっか非があるかって聞かれるから、そこまで言われるんだったら言いますけど、って遠慮しながら言ってますね、夾山。

それに対して、「此の如く解説するに、何れの処か不是なる」私はあの様に話を、法身の内容を説いたんだけど、何処があなたが指摘するよう駄目な処、過ちがあるんでしょうかって、あくまで法に対して親切な勉強ぶりですね、大原の孚上座。それに対して夾山と言われる典座、職をしていた方、「請ふ、座主更に説くこと一遍せよ」もう一回話してください。孚曰く「法身の理は、猶ほ太虚のごとし。竪に三際を窮め、横に十方に亘る。八極に弥綸し、二儀を包括す。縁に従ひ感に赴く。周遍せずといふこと靡し。」って再び説いたんですね。

典座曰、「座主の説不是なりとは道はず、只だ法身量辺の事を識得して、実にまだ法身を識らざること在り」言う事はですね、それらしい事はちゃんと言っておりますけども、まあ、もっと酷い表現をすればですね、本当にあなたはその事を見て来ないのに、見て来た様な嘘を言ってるじゃないかと、こう言う事です。本当に見なくたって、書いてあるものを勉強すれば、私達だってそうでしょ。大体の事は今だって言えるでしょ、勉強して。そう言う指摘です。頭からバチャッとこう否定したい処がこの夾山と言う人の、何だろうね、懐の深さですかね。

さすがあなたはよく勉強しておられて、法身の事をこうやって説いて、上手にお説きになる。それは間違いだとは言わないけれど、あなた本当に法身の真相そのものを、自分で見届けた事があるのでしょうか。誰か人の言ってる話を鵜呑みにして話してるだけじゃないのかって、こう言ってる訳ですね。きついとこですね。それでも通るんですよ。通りますよ、それで一般には。だけど仏道の修行するって言う事では、そんな事では許されない。自分の中にも疑義が残るでしょう、人から突かれなくても。

えー、それを聞いてですね、孚上座が言われるのに、「既に然も是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし。」だったら、本当の様子をぜひ伺いたい。この時、それだけ指摘した方の夾山が自分にその体験が無かったら、こりゃわやですね。話にもならないんだけど、ちゃんとしてるから、それに対して対応するんでしょう。

典座曰「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室中に於て端然として静慮すべし。心を収め、念を摂し、善悪の諸縁一時に放却し、自ら窮究看すべし」要するに本当に坐禅をしておらん、とおっしゃっております。考え方じゃない。事実を、本当に坐禅をして事実がどうなってるか、事実に学んで見なさい、とこう言っておりますね。

ここにも出て来る、「善悪の諸縁一時に放却し」とある。要するに自分の考え方で評価しない、ものに対して良いとか悪いとか。花で言えば、美しいとか汚いとかって評価をせずに、本当にそこに花があるんだから、その花の在り様そのものに、自分の評価を一切入れずにふれてごらん、と言う。そうすると、花の様子がよくわかる、とこう言う事でしょう。

坐禅の時もそうです。色んな事が坐禅している時に、自分の活動があるけど、それに対して人間と言うのはすぐ自分で評価をする。例えば、何か思いが出てくると、思いに手をつけるなって言われてるから、手をつけない様にしなきゃいけないって、そう言う風な事やったりするのでしょう。ほっとけって、ほっとけば出て来ても、そのままほっとけ、あるいはそのまま流しとけば、って言うと、そのままほって置く様な、流して置く様な、そう言うに扱うんでしょ。人間がやってる善悪諸法を一時に放却してる状況ではありません。皆手をつけてる様子ですよね。

知らずに手をつけちゃうんですよね、そうやって。教えられてる事を基準にして。何もしない様にって言えば、何もしない様に守る。そう言う事じゃない。何もしないって言う事は、そう言う事さえもしないのでしょう。手をつけないって事は、手をつけない様にする事じゃないのでしょう。

ここら辺が本当によく話してみないと違うんですよ。真面目に一生懸命そうやってやってるから、ずれてくるんです。自分では言われた通りの事でキチッとやってると思ってるんです。それは諸縁を放捨してない。自分の考え方が、あくまで聞いたものに対して、自分の考えで受け取った受け取り方で、修行してるって言う事が、この辺のとっても大事な事でしょう。

「極めつくしみるべし」本当に事実がどうなってるか、徹底自分の見解を入れずに触れてごらん、とこう言うのでしょうね。そして言われる通り「孚、一に所言に依り」夾山がおっしゃった事に拠って、「初夜より五更に至り」「鼓角の鳴るを聞きて忽然契悟せり。」一晩朝になるまで坐ったのでしょうね。そして明け方に太鼓がドーン!と鳴った。それによってアッって気がついたんですね。 

「便ち去って禅者の門を叩く」だから昨日教えてくれた夾山の所に行って、自分の心境を告げたんでしょう。叩くだから、先ず行ったんですね。行ったら、典座「誰だ」って言う事です。戸を叩くやつは誰だって言う事です。孚云「私です」。で典座咄して曰く「汝をして大教を伝持し、仏に代わって説法せしむ。夜半什麼としてか酒に酔うて街に臥する」この夜中にまだ夜が明けない頃に、丁度お酒によって町の中で寝てしまう様な、いう様な事挙げてますね。ちょっとたしなめたんですね。

普通だったら、夜が明けて、ちゃんと衣服を整えて、そして香をたいてお拝をして、そして参禅をする。これがまあ当時の在り方です。それだのに、まだ夜中寝ている頃に叩き起こしてって言う事ですね。非礼なんでしょう。そう言うの丁度酔っ払った奴が所かまわず喚いてる、夜中に入ってきたって言う様な表現をしております。だけどそれにはそれなりの意味がある。そんなに急を要するって言う事は意味があるのですね。そこら辺が次の様子なんでしょう。

孚云、「自来の講経は生身の父母の鼻孔を将って扭捏せり。今日より已後は、更に敢て是の如くならじ。」今迄は本当にいい加減な事を自分でさも本当らしく話して来たけど、もう二度とそう言う間違った事は、これから先しません、とこう言ってる。まあそう言うのが、一段の、碧巌の方にも出て来るのでしょうかね。それがここの「孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。」今そう言う風な因縁話があって、その話がそこに展開した事ですが。

「これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」まあここでは、夾山の典座和尚さんに教えを乞うて、一晩坐って、朝の太鼓がドーン!と響いた。その事に拠って本当の在り様が手に入ったって言う事ですね。これが梅花の春風、春風が吹いてきて、梅の花が咲いたと言う事でしょう。そう言う風に普通は読むのでしょう。春風が吹いてきて、梅の花が自ずからそこで、何輪か知りません、大少ですから、花がさいた。太鼓の音に触れただけでそう言う事が、どうして悟ったか、理由は無い。ダーン!(大きな声で)それだけですよね。

それまでは、太鼓の音をまさしく聞いてた人なんですね。ああ、太鼓が鳴ったって、その位にしかやってない。そう言うのを、お父さんお母さんの身体を借りて、この世に出て来た生身の体と言うのでしょう。そう言うでっちあげた教えられた話。人から聞いて教えられた話であって、自分で本当に触れた自分の内容ではない。皆さんがドーン!とやった時に、どうですか。誰の力も借りなくても、その太鼓が一声鳴った時に、どうあるか。そう言う体験をしているに違いない。だけども従来の自分を見る癖がありますから、何だ、今、太鼓が鳴ってる、あれは何の合図の太鼓だとか、そう言うな事だけで生活してる。

まあ修行で寺に行くと、鳴り物が基本ですから、まずそうやって教えられるから、幾つ鳴ったらどうだとか、何時鳴ったらどうだとか言う事を覚えて、そう言うものの上から太鼓の音を聞く癖がついてる。それはここで言う様に、人に教えられた聞き方でしょう。

そうじゃなくて自分でなければ絶対聞く事の出来ない真相があるでしょう、一人一人。だって生涯人の耳を借りて聞かないのですよ。言っときますが、音を聞くのに、片時も人の耳を借りて聞いた音はないのですよ、生涯。だったら、騙される事ないでしょ、聞いて。何で聞いたものが、腹が立ったり騙されたりするんですか、自分自身がやってる事で、自分自身が騙される様な愚かな事がありますか。


眼だってそうでしょ。自分自身の持ってる眼以外のもので、見た物は私達は無いでしょう、生涯。一切他の人の眼を借りて、物は見ない。借りなくてもちゃんと見えるのだからいいじゃないですか。他人の見てるものと、自分の見てるものとで、何で争わなきゃならない。まあそう言うな事も出てきますね。

時間もうちょっとあるんですが、どうしましょうか、一応梅花の巻き、終わってる。 (終)

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_03_01
梅花 Ⅴ_03_02

次の句ですね。五祖法演禅師のものとして、まあこれ丁度今頃の事考えてみたらわかるでしょ。東風のほうから寒風が吹いてきて、日本の国に寒い風が来て雪が例年よりかなり積もっております。そう言うな事ですね。北風。「朔風和雪振渓林(朔風雪に和して渓林に振ひ)」まあ、そう言う位でいいじゃないですか。

そして雪が降り積もると、万物を隠し、「万物潜蔵恨不深(万物潜し蔵るること恨み深からず。)」何もかも雪の中に、こう閉ざされてしまう、その中でただ山の上に咲いている梅だけが、その雪の中に紅一点と言う様な事ですかね。或いは「千山白漫々孤峰何によってか不白なる」。そう言う句もあります。見渡すかぎり山が真っ白なんだけど、どうしてあそこの山だけが黒いのかって言う。そう言うまあ公案でしょうね。そう言うものを見せております。

それは雪が幾ら深く降ったって、梅ノ木が雪に覆われず出てる事もあるでしょう。ここではあの梅と言ってますが、本当はお互いの事でしょう。そう言う北風が吹いて、雪が舞いそしてあたりを全部埋め尽くす中に、どんなに埋め尽くしても、自分自身は隠れる事はないですね。真っ暗になっても、自分自身は隠れて分からなくなることはありません。不思議なもんですね、自分自身て。人から聞かなくても大丈夫ですね。自分自身の様子って。真っ暗で、私何処に居る、なんていう人は居ないんじゃないですか。見えないから何処にいるって、そんな事ないでしょ。所謂見えなくてもはっきりしてるんですよね。分かると思うよ。

「唯有嶺梅多意気(唯嶺の梅のみ有りて意気多し)臘前吐出歳寒心(臘前に吐出す歳寒の心)」て言うのは、「ウ、ワー!だんだん寒いなー」(大声で)って言ってる様な状況でしょうかね。身に徹して寒い。一番よく分かる。他人の事じゃないもんだから、自分自身の様子なもんだから、誰に尋ねなくてもよく分かりますね、寒いって言う事が如何いう事か。説明なんか何も要らんねぇ。

まあそう言う事でいいと思いますが、道元禅師は「しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。」本当にこの身の在り様以外に、生涯生きていたってないじゃないんですか。此処に説かれている様に。誰でもそうでしょ。短い時間を言えば、朝から晩まで一日の様子を見て下さい。本当にこの一身、自分自身の在り様だけが、ずーっと朝から晩までずーっとあるだけですよ。その在り様が展開されてるだけですよ、各自。ここでは歳寒心といってます。

「梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。」物と本当に一緒になって、ありとあらゆる千変万化しながら、ずーっとこうやって生きております。たまたま此処では、北風が寒い寒気を日本に連れて来て、そして上空のものを冷やして、そこに雪を降らしていく。私達もそう言う中にいると、それと一緒になって、その寒気の中で、雪の降る中で生活しています。

「はかりしりぬ、風をひき雪をなし」その「ひき」って言うのは、永平寺の本山版によって改めたとあります。元はシキって風をしきって。風をひきって言うと何かインフルエンザにかかったみたいに読むかも知れませんが、そう言うシキって事じゃないでしょ。風と共にって言う事でいいでしょうかね。一緒になりながら。

座布団をひき、ひくとかって言う意味ではないでしょうね。雪をなす、風を連れて来て、寒い風、北風を連れて来て雪を降らすと言う様な事でしょうかね。「歳を序あらしめ、」秩序の序、此処ではなんですか、一年に四季の順序がある。まあ雪が降る頃を、私達は冬と大体位置づけてるんですね。一年の中で。寒い時を冬と言って来たんですね。だから暦の上と実際がずれて来る。実際と言うものはずれませんね。暦はずれても。実際はずれません。寒い時は寒い、暑い時は暑い。

日本の様な国にはその四季があるもんだから、その中で色んな文化が育ってですね。私の家内なんかでも、和服の着こなしを勉強してるんだけども、つまらないとこでこだわってるんだなと思うんですが、暑いのに、今こういうものだって言って、着るんですね。暑かったら、もっと薄いのでいいと思うんだけど。寒くてもおなじですよね。桜の花のついてる模様とか梅の花がついてる模様とかって言うのは、なんだか聞いてみると、咲く前に着るって言ってますね。その時期の時には、その花のは着ないとか。何でって言ったら、負けると言うんでしょうかね。実際に、桜が咲いてる所に、桜の花の模様がついてるものを着ていったら、絶対その実物の桜に負けるのでしょうね。だからそれよりも先取りをして、少し前に着るって言うのが大体、作法だって言う風に決めてあるらしい。厄介な事になって。そう言うのもここらで言う「歳を序あらしめ」るのでしょう。

「および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり」。本当にこのもの無ければですね、この自分がなければ、ありとあらゆるものがあるという事が出て来ないんですね。不思議ですね。このものが消えると、一切のものが一緒に消えるんですね。ところが、人間の頭では、そう言う風に納得出来ないですよ。人間の頭って言うのは、私が全部、死んじゃって無くなったって、円通寺は無くなる訳はないなって、そう言う風に認識するんですよね。で、そう言う認識をした上で、お互いに話をする時に、あれも死んだけども、円通寺は無くなってないじゃないか、ホラ、人が死んだって無くなりゃしないぞって、こう言うんですね。そうすると、皆も、ウンそうだねって納得してるんだけども、自分が死ぬと言う事になると、一切が無くなるんですよ。

大地有情と一緒に出てきたんだ、これ、生まれる時。これが生まれたら、大地有情が全部出現したんだ。これが亡くなると、一緒に全部消えるんです。そう言う風に、これ活動してます。考えてる事と事実は随分違う。皆、梅花力と言われてますが、本当に各自の在り様でしょう。各自そう言う風になってる。だからすっきりするでしょう、終わったら人生。生まれて来る時もそう。

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_02_01
梅花 Ⅴ_02_02

先だって東京に行って、雪がひどくて帰れないもんだから、ホテルを検索して、急なもんだから、泊まる所が無くなった。しょうがないなと思って、友人に泊めて貰った。そしたら、歓迎レセプションみたいな事になって、その内、津軽三味線を先ず弾いてくれた。男性ですよ。名取位まで行ってる。それが終わったと思ったら、今度はそこらにある剣だとか棍棒だとか、
色々な物持ってきて、武術を披露してくれた。

書道も四段だとかって言って、机の上に毎日書いてるらしくて、書いたものがあった。その後、手紙が来た。この前どうもって言って、手紙の中に、書道四段だけど、こんな字で恥ずかしいって書いてあった、自分の字が。だからお手本があって字を書く時には、それなりの字が学べて書けるんですね。だけども、自分で手紙を書こうと思うと、学んだ文字を使って書こうとする。本当は最初から自分の文字を書けばいいのにね。丁寧には書いてありました。

もう一つ武術を、その教えてくれた時に、ご本人が言ってたんだけど、あのやっぱり、前にそう言う事があったんでしょうね。人が来た時に、自分の持ってるものを披露して接待しようって事で、奥さんに「あの道具は何処へやった」って言って、探さしたんですって。そしたら、「あなたそれ、何するの」って言ったら、「いや、今剣法やって見せるので欲しいから、何処にあるか」ったら、「それはいいけども、実際にこんな事習ってて何の役に立つのって。もし敵が攻めてきた時、あの道具何処にあるかって言って、それ探してから、それで相手するのか」って言って奥さんに言われて、グーの根も出なくなって、「俺は何を一体やってるんだろう。武術ってこんなものか」って言ってましたね。

まあそんなんでしょう。考えてみれば、そんなの武術じゃないですよね。探してるうちに、終わりですよ。だけどそれがないと習ったものが披露できないって言って、それ探すわけですね。面白いなと思って。そう言うご夫婦の会話見てても。仏道の在り様って言うのは、そう言う事の時にもちゃーんと、人が如何に詰まらない事やっているのかって教えてくれるのでしょうね。

その方は18歳の時に一人でアマゾンに行って、部族の人と生活をなさった経験があったりなんかして面白い。一つの事やり始めたら、とことん究めないと自分で気がすまないタイプらしくて、最終的に禅に興味を持ってやってます。だから真面目にやってますね。そんな家に泊めてもらった、雪で。面白い事になる。まあ息抜きの話ですけども。

「古今寥々たり、何の極まりか有らん」本当に皆さん方のこの身体一つですよ。よーく学んでみると、飛びっきり上等な持ち物ですよ。出来栄えですよ。それだのにそれを知らないと、自分で人生を誤ます、嘆いて。「しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。」梅花の働きと言っていいでしょうか。働きって言う事は、皆さんが目と物とが触れると、必ずそう言う風に否応なしに、何者からもすっかり抜け切って、今の在り様だけで生活が完全に出来るって言う事ですね。

そのもの以外に見えないでしょう。皆さん見てください。こうやってて、そのもの以外のものは見る事ないでしょ、見えてる事の他に。何処へこうやって目を向けても、そのもの。要するに前に見たものが気にかかる人はいるかも知れませんよ。前に見たものが気にかかる人は居るかも知れませんけど、自分の眼がどうなってるかをこうやって検証してみるとですね、以前のものが何処にも無い事がわかるでしょう。気になってるはずなんだけど、無いんですよ。実際の眼の働きって言うものは。

どっちを皆さん信用しますか。自分の頭の中で先っき見たものが思い浮かばれてですね、それを問題にする方を信用するんですか、それとも自分の眼を、本当にこうやって物を見てる時に、今のもの、他のもの一切なしに見えてる、こんなに底抜け素晴しい働きをしてる方に賛同するか、どっちでしょうかね。

もし仏道を学ぶ人だったら、この事実に学ぶのでしょう。自分の今の眼はこう言う風になってる。考え方じゃなくて。これはこれから作るんじゃない。既に出来てる成仏なんですよ。そんなにうまく出来てるものを、自分が使ってるにも拘らず、それを知らないから、無いと思ってるのと同じですね。貧乏人だと自分が思ってるのと同じなんですよ。こんな豊かな生活が出来てるにも拘らず、これ知らない。そう言う人に限り、まだ何かしないと気がすまない様な生活になるから、不思議ですね。ものが分からないと、余分な事一杯やるんだよ。疲れ果てちゃう。

「行雲行雨は梅花の千曲万重色なり。」無限の、さっきやりました、何の極まりかあらんて言う、そう言う句を、道元禅師はこう言う風に表すんでしょうね。「千曲万重色なり」限りない働きでしょう。「千功徳なり。」それらも、そう言う事の表現の仕方でしょう。「自古今は梅花なり。」梅に限った事じゃないですよ。梅の花に限ったことではないけども、今梅の花を一つ手折ってですね、その一輪の梅の花を相手に、これだけの仏法を説くのでしょう。たったそれだけですよ。梅の花に触れている事だけで、道元禅師は仏法の真髄を説くんですよ。どうなってるかを。一般の人はただ梅の花をみてるだけです、悪いけど。その位で終わるんです。同じ梅の花と出会っていて、これだけ豊かな内容を知り得る力と、ただ梅の花を梅の花として見えるだけで終わっている人とは違うでしょう。

「梅花を『古今』と称ずるなり。」今も昔も梅の花に触れれば、必ず梅の花に触れた様になると言う事が、その証拠でしょう。昔はそうだったけど最近は違うって、梅の花に触れたら菜の花の様に見えるって、そう言う事はないでしょう。それだから、仏道として信用できるんじゃないですか。人が作ったんじゃないっですよ、そう言う風に。梅の花に触れたら、梅の花が見える様にって作ったんじゃない。一切そう言う所に人らしい気配がない。

因果の道理人我無人、とかあるでしょう。因果の道理、私無し。修証義読んでるから、そう言うのが浮かぶでしょうけど。因果の道理の中に私なし。そう言うものが入らない。本当に目と物とが触れると、梅に触れれば、梅に触れた様になるって事が因果の道理なんです。ここに私がどうかするって気配がない。そこへ入り込んで。それが所謂法と言われてるものなんです。法の在り様ってのは、そう言う風に出来てる。それを私達は自分のこの身心の上で、本当に参究してみるどうなってるか、とことん知り尽くしてみる。そう言う行をしてるんでしょう。

↑このページのトップヘ