shobogenzokandoのblog

This blog presents Kando Inoue roshi's activities, mainly his dharma talks of shobogenzo in English. Kando is the top advocate of shobogenzo by Zen Master Dogen.

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_01_01
梅花 Ⅴ_01_02
梅花 Ⅴ_01_03
梅花 Ⅴ_01_04
梅花 Ⅴ_01_05

もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのとこも対面不相識なるべし、相逢未拈出なるべきがゆゑに。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。直に梅花眼睛を開明なるべし、さらにもとむるやみね。

先師古仏云、
明々歴々、     《明々歴々たり、
梅花影裏休相覓    梅花影裏に相覓むること休みね。
為雨為雲自古今    雨を為し雲為すこと古今よりす、
古今寥々有何極    古今寥々たり何の極まりか有らん》

しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。行雲行雨は梅花の千曲万重色なり、千功徳なり。自古今は梅花なり。梅花を『古今』と称ずるなり。

古来、法演禅師いはく、
朔風和雪振渓林   《朔風雪に和して渓林に振ひ、  
万物潜蔵恨不深    万物潜し蔵るること恨み深からず。
唯有嶺梅多意気    唯嶺の梅のみ有りて意気多し、
臘前吐出歳寒心    臘前に吐出す歳寒の心》

しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。はかりしりぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり。

太原孚上座、頌悟道云《悟道を頌するに云く》、
憶昔当初未悟時、  《憶昔当初未悟の時、    
一声画角一声悲    一声の画角一声悲なり。
如今枕上無閑夢    如今枕上閑なる夢なし、
一任梅花大少吹    一任す梅花大少に吹くことを》

孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」
言わんとしてる事はですね、そこにも有りますけども、誰でもが普通に経験してる事だと思いますが、此処にも、臥龍梅と言う名前が付けられた、本堂の前に紅梅がこうあります。ちょっと暗くなったから、花が見えづらいかも知れませんが、咲いております。そう言う、皆さんが梅の花の咲いている所に、こう通りかかって、こうやってやると、梅の花が、枝も勿論でしょうけど、その他の事も全てでしょうけども、代表して梅の花が、こうやって咲いている所に目を向けるとその通りに見えるという事が、ここで取り上げられてる事なんですね。

だから、こう言う様な事は一般にですね、何でそんな事が、その問題になるかって言われる位、あまりにも平凡な事に違いないんですね。だけども、仏道と言う、仏道、仏様の教えって言うものは、そう言う誰しもが、日常生活で使っている上の話なんですね。これはとっても考えてみれば、大事な事でしょう。私達が日常生活無縁の、使ってない世界の話を取り上げて、何かする様な仏道だったら、一般の人に全く必要ないんじゃないですか、最初から。毎日誰でもがその様に使っている中に、私達がもう一度見直さなければならない大切な事があると言う事なんでしょう。


「もしおのづから自魔きたりて、」ってありますが、自分の中で、ふっと何か自分流のものの捉え方、見方、考え方あるいは取り扱い、そう言う様なものがふっと起きると、目と梅の花の関係においてですね、そこに余分なものが、こう生まれてくるんですね。だけども、これが本当に自魔と言われる様なものが無い時には、自ずから眼は梅に触れると、いきなりその通りの事がそこに展開されます。まあ、段階を追って話をすれば、梅の花に向かうと見えるって言う風に皆さんは使っております。だけども、梅の花が見えるって言うんだけども、本当はそんな気配はない。

どういう事かって言うとですね、仮に今皆さんが目を閉じてですよ、目をパッと開けて見てください。パッと。実験だからやってみて下さい。目を閉じて、目を開けて下さい。どう言う風になってますか、皆さん方、その時。目を開けたら見えたって言うんですか。これ普通そう言う表現してるでしょ。目を閉じてて、目を開けたら見えたって言うんでしょう。じゃあもっと丁寧に話をしたら、自分で何か見たらしい気配がありますか。目を開けただけでしょうが。開けたらもうあるんでしょう、イキナリ。開けた瞬間にあるんでしょう。見るって言う様な気配は全く人の上に無いはずだ。そう言う事が、仏道の上で問われてるんですね、日常の上で、私達は。

それが修行なんですよ。修行するってそう言う事なのね。あの坐禅の中でもよく使われておりますね。どれが最初かしりませんが、この調えるっていうんですね。目をパッと開けた途端にですね、その目の前に咲いている梅の姿を、私達は何にも手をつけないのに、その通りにきちっと乱れる事なくその通りに、梅の花の通りに、この身体が頂く事が出来てる、それを私達は調身といいます。身を調えると言います。

ところが一般に坐禅の時に身を調えるって言うのは、そう言う風には受け取ってません。どこかを手をつけて、直して行くって言う風に、調えるって言う字を読んでおります。心だってそうです。本当に何もしないのに、梅の花の所に行ったら、否応なしに梅の花の様に全部なります。これ、自魔のない証拠です。自分の中に余分なもの一切ない時の様子です。

だから坐禅は大安楽の法門なんでしょう。イキナリその事で完成してる。手をつけなくても。何処にも、その、何かしなければこれからちゃんとしないじゃないかって言う気配は一切ないほど、きちっとした事してるんですね。だから、菩提を究尽するの道とあります。本当の、その今の在り様を徹底、知り尽くす唯一の道ですよね。その事から一つも離れてませんから、その事実に触れたら、否応なし誰でも、その事実の通りになる様になってます。

ましてや坐禅は習禅にあらず、練習をしてそう言う風な見方をするのではない。何回もやったら、そう言う風に見える様になる訳じゃない。必ず、皆さんが見てる時そうでしょう。イキナリ一回こっきりでしょう。その時、必ず今やってる見方しか生涯生きててもないですよ。前のものを使って見るって言う事はありません。いつも今の眼の様子だけで、その通り見える様になってる。習い覚えて段々はっきり見えるとか、よく分かる様になる、そう言う様な事ありませんね。ここでは梅花は仏様の目です。眼睛。

「梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし」梅の花とお釈迦様の目の様子が別だって考えてる人がいる。よくよく見てごらん。「このほかに何法」ですね、何か法らしいものですね。「梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。」何をもって眼というのか。眼は梅の花を借りて、梅の花が見えるのを眼の様子と言うんでしょう。だから、眼だけ有って、皆さん方が眼が如何いうものかを知る事は出来ません。眼の対象となるものに触れると、見えると言う現象がありますから、それに拠って、眼は物を見る力が有るって事を始めて知るのでしょう。

要するに、目と物は別々でないと言いたいのですね。その証拠に、皆さんが日常生活、こうものが見えてる時に、眼で物が今見えてるって、誰もそんな事言いません。眼なんかすっかり忘れてます。この見えてる事自体、最初から眼の様子なんですね。それ以外に眼の様子は無いでしょう。だけど、学問をし、色々教えられるもんだから、人間に目と言うものがあって、それが物に触れると見える様になってるって、そう言う働きを持ったものを人間が持ってるから、見えるって教えられたんですね。

だけども、これもよくよく考えてみるとですね、そんな事を学問もしない、誰からも教えられなくても、生まれてから後ですよ、何時自分が物を見たか知らない時から物が見えてるんですよね、小さい時。幼い時自分が物を見てるなんて誰も知りませんよね。何時ごろから、自分が物を見てるって言う様な事が、認識できる様になるんでしょうかね。或いは、もう少しよく使われるのは、これを私だと思う様になったのは何時ごろからでしょうかね。私がいるなんて、生まれて来た子供達は知らないんですよね。これが世の中に出て来たんだけれども、これが私だなんて、そう言う認識は全くなしに生活してる。

じゃ、認識が無いから、物に触れた時に見えないのかって、あるいはおっぱい吸った時に味がしないのかって。おっぱい吸ってるって認識が無くてもですよ、味はちゃんとするんですよ。だけどそれは認識の上で、これはおっぱいの味だって言う風に自覚はしてないですね。そう言う認識はしてない。だけども、間違いなく体感として、水を飲む時とおっぱいを飲む時、身体がちゃーんと違った反応してる。そう言う事は全部人が作ったのでないって言う事の証でしょう。本来のものって言うのは人が作ったんじゃない。

音がすると聞こえるって言うけど、本当に音がしたら聞こえるんじゃなくて、何だろう、音がしたら聞こえるんじゃないんですよね。コン!(机を打つ)わかりますかね、そう言うの。常識の勉強して来た人だと、中々わからないですよね。コン!確かに音がしなくちゃ聞こえないでしょう。コン!だけども、コン!なんだろうね、これね。コン!どうなってるのかね。コン!こう言うのだってコン!耳を持って聞くような人は一人もいませんよね。カチって言うだけですよね。

だから、無眼耳鼻舌身意と般若心経にある。眼も耳も鼻も口も、舌も無いと書いてある。無眼耳鼻舌身意。本当にそう言う働きしてるんじゃないですか。ご飯食べたって、舌が味を味わっているって言う様な事じゃなくて、味がするばかりで、舌なんか何処にもない。痛いーって言ったて身体がある訳じゃない。身体認めてる訳じゃない。痛いって言うだけで、そう言うな事行われてる。そう言うに般若心経の書いてある。無眼耳鼻舌身意、所謂人間が認めている様な、そう言うものが、実際に活動してる時に、何処にも見当たらないと言うのでしょう。

それは眼って言ったら、梅の花なんです。ここで道元禅師がおっしゃってる様に、眼と言ったら、御釈迦さんの眼はどんな眼だったのか、梅の花なんです。「そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、」書いてあります。梅の花が見えてる事の他に、眼って言うのをどっか求めたら、それこそ「いづれのとこも対面不相識なるべし」出会う事はないとある。眼と梅の花が出会うとですね、ただ、梅の花が咲いている様子だけがそこに出てくる様になってる。それを本当に梅の花に出会ってる時の様子というのですね。その時は眼らしいものは無い。

その眼らしいものが無くて、梅の花の様子だけがある事を、私達の眼の様子と言うのでしょう。「相逢未拈出」本当にそうです。目と物が出会ったに違いないでしょう。だけど眼らしいものは何処にも出て来ないよ。出て来るのは、ただ梅の花が咲いている様子だけがある。「今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。」一々が公のものなんでしょう。

だって、私が梅の花を見てるっていう風な風に、梅の花は見えた事がない。今の梅の花を見てても。私が梅の花を見てるって言う風に、梅の花は見えない。ただ、本当に誰が梅の花に触れても、その通りに見える。それ位無私公平です。争い事が一つもない。そんな穏やかな生活がみんな出来てる。もしそう言う自分の在り様に気づいたら、人は変わるでしょう。そうでなければ、一般に言う様に、自分を立てておいて、そして今の自分を見て、どこかを修正して、もっと素晴しい自分にしていくって言う様な修行しかないんですよね。それは仏道とは違うんです。お釈迦様が本当に自分の真相を、自分の本当の在り様に気づいた内容とは違うんですね、それは。人為的に、人が作っていく在り様でしょ。

何故そう言う事が、その言われるかって、先ほども挙げた様に、人が生まれて暫く、こう生活してる処を見てもですね、振返ってみて、人らしいものが一切ない、分け隔てるものが一切ない。本当にうまくピターっと整ってるのでしょう。仲良く生活が出来てるのでしょう、争わずに。どんな事にも。そうやって大きくなって来たんですね。大きくなって来る間に、何時か知りませんが、これは私、それ以外は他のものって言う風に分け始めて、そしてお菓子を分けてもですね、大きい方をパッと取って、そうしたりですね、一つずつ分けたのを、二つ掠め取ったりして喧嘩する訳です。それは私のだなんて。

そのもちょっと大きな事言えば、世界の混乱もそうでしょ。わが国の範囲のものだって言って、海の上にも線を引き、空にも線を引き、地球の大地の上にも線を引いて境界線を作って、自国の利益の為に、お互いが力を出しあって、争って、それを確保する。まさに私達がすこし大きくなって自分て言うものを認めたのと何ら変わらない事ですよ。それが世界を乱すんですよ。

今こうやって生活してても、毎日の中で問題が起きる時は、必ずそこに自分で一線を引く、引いて相手が言ってる事が気に入るとか入らないとか、言う様なことが自分の上に出て来るから、そう言う処からものの在り方を学ぶって言う事が、それが一般の教えですよ。仏道は違いますね、根源です。元がどうなってるかって、一番最初にどうなってるか、そこを見てます。

こうやって、コン!(机を打つ)必ず一緒になるように出来てるんですね。否応なしに。コン!こうやってやったら、音と一緒になれるようになってる。どう言う風に聞いたら一緒になれるかってって一切使わなくても、音がしたらその通り、必ずそれ以外の聞こえ方がしない様に出来てる。自魔、自分の中に障りになる様なものが起きないんです。そう言うのを本当に体験して伝えて来られたのは、お釈迦様じゃないですか。それでここに、「瞿曇の眼睛」って言う様な事が出て来るんでしょう。仏様の眼。仏様の眼って言うのは、そう言う時の私達の本当の在り様の事を、代表して挙げてるんですよね。

「直に梅花眼睛を開明なるべし、」いいでしょう、直にって。時間も距離も一切ないじゃない。これ修行するのに、最高の修行の仕方でしょう。時間も距離も何もない。いきなりコン!ちゃんとその事が出来る様になってる。どうしたら、そう言う風にうまくいくかって一切そんな事要らない。直って言うのは、間へ何も入らない。直(チョク)って言うのはそう。イキナリと言う意味でしょう。あの、イキナリって言うと、時間がかかるんですね。

しょうがない、その位にしか言い表し様がないから、その位で我慢してる訳です。だけどこうやって、ガー!(大声で、机も打つ)って言った時に、こう言うのイキナリとは言わないでしょう、この事実をみてると。そんなもの一切なしで、ガー!っと言うだけですよ。そう言う消息が、本当は直下承当なんでしょう。イキナリその事がその通りに受け取れる様に出来てる。修行の在り様です。そう言う処を見ると、「梅花眼睛を開明なるべし」はっきりしてるって言う事でしょう。

「さらにもとむるやみね。」とありますが、もうその他に何にもする用ないじゃないですか。それが本当に、梅の花を愛ずる時の在り様なんじゃないですか。ところが人間の梅の花を愛ずるってのは、綺麗に咲いてるねとか、色んなそう言う風な思慮分別を、いっぱい自分の中で起こすから、そう言う事を梅の花を愛ずるって言う風に捉えてるんです。よく考えてみると、それは梅の花を見てるんじゃなくて、皆考え方の上の話であって、実際の梅の花とは全く離れた話でしょう。

自分の中を見て下さい。頭の中で梅の花の事を色々考えてる時に、実際そこに咲いている梅の花の前に居ながらですよ、梅の花を本当に観察するとか、触れるとか、匂いをかぐとか、形がどうなってる、色がどうだとかって言う様な事やってる人はいません。出来ないんです、こっちの頭の中でやってる事があると。それ位事実から離れてるんだけども、その事さえも知らないですね。本当に目の前にある梅の花を相手にしてると思ってるんです、ここで(頭)。違いますよ、全く。この頭の中で取り上げてる話だけですよ。それを止めると、ここにある様に、はっきりするんです。そう言う事が、お釈迦様が歩まれた道でしょう。まあそれが、ちょっとそこにひとくだり、一下りです。そう言う事が大体書いてあるんです、ここに。

後は、道元禅師、漢詩もお好きなもんだから、こうやって色々な方々、歌を詠まれた漢文をですね、取り上げて味わっておられるんでしょう。私達は漢文に不慣れなもんだから、中々漢詩をこうやって出して下さっても、味わいを十分に味わう力が無いと言う事があるかも知れません。

如浄禅師の作られたものでしょう。「先師古仏云、明々歴々、(明々歴々たり)」一点の疑い様がないというんでしょう。梅の花の時に、霊雲の話を出しても、ちょっとずれるかも知れませんが、霊雲の志勤禅師が桃の花の咲いている処で悟りを開いた。桃花をみて。明々歴々なんですよ、明々歴々。どの位明々歴々かったら、すっかり自分を忘れちゃうんですよね。

梅の花を、桃の花の咲いている畑の中に、こうやって佇んでいて、すっかり自分を忘れて、桃の花の様子だけになってしまう位。それまではやっぱり、桃の花は対象物なんですよ、自分と。向こうにある。それを眺めているって言う気配が、人にはあるでしょうね。それが眺めるんじゃなくて、自分らしいものがすっかり消えると、桃の花の様子だけになる。そう言う体験があるもんだから、お悟りを開いたと言う事になるのでしょう。そう言う事が、次の句に反映するんでしょう。

「梅花影裏休相覓(梅花影裏に相覓むること休みね。)」下の方に(脚注)色々書いてありますが、こんな説明、理由は一切要らないんじゃないですか。実際自分の目でやってみればわかるでしょ。「梅花は自己の眼睛である。瞿曇の眼睛であるから、だから梅の花の前にあると梅の花が見える」なんて、そんな屁理屈一切ないんじゃないですか。無いでしょう、そんなもの。

なぜか梅の花の前に行くと、梅の花がその通りあるんじゃん。だけど、どこかしら自分が見てるらしい気配が自分の中に残るって言う事が、もう一つ問題なんでしょう。本当に梅の花が見えてる時、人間て自分らしいものは一切ないと思いますよ。日常茶飯、色んな処で注意深く過ごしてみて下さい。我を忘れてるんですよ。

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり、とありますけど、初めから、自分らしいものはすっかり無しで生活してる。その時の自分の様子に学ぶ、と言う事が説かれてるんですよね。何かした拍子に自分らしいものふっと出て、そして対抗する。それまでは自分らしいもの、殆ど人は、生活の中で見てませんよ。うまく行っている時は正しく、自分らしいものは本当に顔を出さない。初めからそう言う風に、自分らしいもの無い様子が人にはあります。そこの処に参じてほしいんです。そう言う生活をしてる。

「為雨為雲自古今(雨を為し雲為すこと古今よりす、)」まあそれは風景の様子でいいでしょう。「古今寥々有何極 (古今寥々たり何の極まりか有らん)」こうやって生活をしてる、眼と物が触れ合いながら生活してるけど、その様子を見て下さい。雨にもなれば雲にもなる。そしてずーっと、何時始まって何時止まるともなく、この眼と物との関係がずーっと繰り広げられて、もう疲れちゃってみる事が出来ない、嫌だなとかって言う風に、眼はならない。病気をして眼が、白内障とか失明すれば別でしょうが、そうでない限りは眼はですね、こんなに沢山みるのは嫌になったって、今日は止めだって言う様な事はない。

本当に一日中の様子を見たって、此処にある様に「有何極 (何の極まりか有らん)」幾らでも入るんです。幾ら見ても、一杯になって、もうこれ以上は見る事が出来ないって言う様な眼はない。何処に見たものが入るかわからない。でもいつでも、イキナリきちっと生活が出来る。用意をしてなくたって、其処行ったら、その通りの事がすぐ出来る。準備していなければ、物がちゃんと見えないって言う様な事は眼にはない。もしそんな眼だったら役に立たない。

音声はこちら ↓

梅花 Ⅳ_4_01
梅花 Ⅳ_4_02
梅花 Ⅳ_4_03
梅花 Ⅳ_4_04
梅花 Ⅳ_4_05


先師古仏云、「本来面目無生死」よく聞く言葉かも知れませんね、お坊さん達は。如浄禅師の句でしょう。お医者さんのお葬儀の時に唱えた引導の言葉とかあります。「本来面目無生死」「春在梅花入画図(春は梅花に在って画図に入る)」描いた絵です。

一幅の軸に梅の花が描いてある。それが、「春在梅花入画図」って言う表現でしょう。春を描く、「春を画図するに」春を描く。春を描く時に、柳や梅や桃や李を描くべからずとあります。「まさに春を画すべし」春を描きなさい。柳や梅や桃や李を描くと言う事は、柳や梅や桃や李を描くと言う事であって、春を描くと言う事ではない。確かにそうだなと思いますね。

じゃ春ってどうやって画に描くのでしょう。道元禅師って面白い人だねぇ。本当にこう言うの読んでると。春は描けない訳じゃないと書いてある。「春は画せざるべきにあらず」と書いてある。じゃ、そう言うものを使わないで春の字も書かないでも、春は描けるじゃないかって言うんでしょう。

「しかあれども」だけども、如浄禅師の他は、インドも中国に来てからの間でも、春を本当に描いた人は一人もいない。一人如浄禅師だけが春を描く事が出来た。その描き方や鋭いとあります。どの位鋭いかって、今こうやってる事を、いきなり此処で、そのまま見せる力があるのでしょう。これ位鋭いものは無いでしょう。今の様子を、今ここで、いきなり誰にでもきちっと突きつける。皆さんに、皆突きつけられてるんでしょう、今の様子を。突きつけられてない人は一人も居ないはずですよ。

「いわゆるいまの春は画図の春なり、『入画図』のゆゑに」例えば皆さんが、ものがこうやって、障子があるって言う風に言ってるんだって、皆、これは描いた様子でしょう。眼と物が触れると、そう言う事がそこに出てくるのでしょう。実際に自分の眼の中にこういう物がある訳じゃないでしょう。ある、ある、って言ってますけど、ただ眼と物が触れると見えるって力があるから、見えるとか有ると思ってるんですね。それだけですよね。

音だってそうでしょう。音が耳に触れると音がするもんだから、音があると思ってるんですね。本当にそう言う活動って言うものは有りそうなんだけども、何処にもない、何処にも無い。触れると音がしてるって言うけれども、自分の中に音らしいものがどっかに有る訳じゃない。みんな描いた画の様なものでしょう。

こうやって確かに見たんだけれども、何処にも無いんだもんね。確かにみて、こう襖が、こうやって今見えたって、これ程確かな自分でも実感があるのに、こうやった時に(目を転じる)、障子が見えるだけで、何処にもさっきみた物がない。それ位画に描いた餅なんでしょう、皆。画に描いた餅で、腹一杯になるんですよね、ちゃんと。

音でも、こうやって、コン!カチッて、音がして聞こえたのに、どこにも音がない、探しても。聞こえたんだけど、ない。よく使われるけど、実相は無相と言う。本当の姿は、形らしいものが一つも無いって言われてます。池に映った月の様だ。月がそのまま見えるんだけど、掬っても掬い取れない。だけど、人間はそうやって物を見た時に、有るって言う風に見てますから、それで、有る有ると思ってるんですね。有るのはこのものの今の活動だけですよ。

それがここで言う、入画図って言うんですね。画図に入るって。画図に入るって言う事は、このものの上の様子なんですよ、皆。一切のものは、このものの上の様子です。音がしたとか、見えたとか、味がしたとか、触ったとか、挙げてもいいけど、全部この上に描かれたものの様子だけです。一歩もそれ出ないよ。あたかもそっちにものが有る様に見てるじゃないですか、それ。ねえ。こうやって皆向こうに物がある様に見えてるじゃないですか。だけど、それ全部自分の上に描かれた様子ですよ。

コンコンコンコン(机を打つ)どっかあっちの方で音がしてる様に受け取ってるかもしれないけど、コンコンコンコンこの音は全部自分の上に描かれてる今の様子ですよ。そう言う風に、この入画図、画図に入るゆえに、道元禅師が言ってますけれど、「これ余外の力量をとぶらわず」本当に外の人に用がないね。皆一人一人、ちゃんとそう言う風に出来てます。

「たゞ梅花をして春をつかわしむるゆゑに、画にいれ、木にいるゝなり。善巧方便なり。」春は画図する、春を描くって言う時に、何か紙を持ってきて、筆を持ってきてそこに画を描くって言う様な事じゃないって言う事を、一括りに言ってるのですね。本当に春を描くって言う事は、この自分自身の上の、今の在り様を除いて、本当の春を描くって言う場所が無いって言うんです。それも今、抜き差しならない、一々の今の様子の上でしか、この本当の春の様子に触れるってことは、描き切るって言う事は、他では無いって言うんです。

そう言う風にして如浄禅師は春を見事に描いた人だって言うんでしょう。本当に春を描き切ってる。もっと平易に言えば、春と一緒に本当に生きてる人です。全身春の真っ只中にいる。春そのものを自分の内容として生きてる。それ位見事に描き切ってるとこう言うんでしょう。生きた春を描くんですよ。道元禅師がそう言う味わい方を教えてくれてますね。

それは、如浄禅師の、ものを本当に真髄を見極める眼があるからだ。「正法眼蔵あきらかなるによりて」ものが本当にどうあるか、どうなってるかって事が、本当に髄の髄までわかってるから、そう言う事が言い切れる、伝えきれる。そう言うものの在り様、「この正法眼蔵を過去・現在・未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。」集まってる人達に、仏祖方は正しく伝える。誰もがそうなっているよ、よく見てご覧、よく自分の在り様に参じてご覧、と仏祖方は教えて下さってるって言うんですね。「このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。」本当に皆さんの目で実験して御覧なさいって言ってます。

人間は常識を超えられないものとして、目を開けると物が見えるって言う風に、すぐそうなるんだよね、人間はね。開けたら物が見えるなんて言う風な、見え方はしないですね。こうやった時に、もう見えるって言う様な余地はない。時間的な隔たりはないんですね。何か向こうに有る物、こう人間がこっちに居て自分が見るって、常にそうやって理解してるけど、そう言う在り方じゃないですもんね。

気づくと言うことは気づく前にあるもんね。こうやって、もう見る前にちゃんとある。見えてるって言う表現も当たらないでしょう。見る前に見えてるって言う様な表現も当たらない。見たって言う事、知らないんだもの、見る前にちゃんとこうなってるからね。でもこれ(自分)を認めてる限りは、どうしても、こっから向こうへ物をって、向かってるんですね。音だって「パン!」(両手で打つ)そうでしょう。音がするのが先か、聞くのが後かって、「パン!」聞くのが先で、音がするのが、って言う様な事やりますけども、本当は後先無しです。

実相に二相なし、って言う。本当の物の在り様には、二つの姿はない。「パン!」向こうで鳴って、こっちで聞いたって言う様な事は、「パン!」ないですね。表裏一体。向こうとこっちを立てたにしても、一体なんですね。二つ物がある訳じゃない。「パン!」

紙の裏表を言いますけど、切って切れないのですね。絶対に。私はよく使うけど、表だけの紙って言うのは絶対に無い。裏だけの紙って言うのは絶対在り様が無い。紙は必ず裏表があるんだけども、一枚です。二枚は無いんです。裏表があると二枚の様な気がするじゃない、二つの物がある様に思うじゃないですか、裏と表って。ところが、必ず一つですね。やってみたらわかる。こうやって裏表があるけど、こうやった時に(表を見せる)裏が見えるって事はない。

こうやった時、(裏を見せる)表が見えるって事はない。じゃ半分に折って、こうやってやってみても、どうなるかって、少しずらしてみても、ずらしたら、ずらした様子がただ一面としてあるだけであって、二つの様子が出てきた事は、どんなにしてもないんですね。でも人間はちゃんと裏と表って二つみるんですね。どこでそう言う風に変わるんですかね。こう言う事が眼睛を究徹すると言う響きの中にあるでしょう。

本当に自分の眼で、徹底究め尽して御覧なさいって、どうなってるかを。私達が常識として知ってる物のあり方とは眼は違う、と言ってるんでしょう。ずーっと話をしてますけれど、こうやって、これだけで、自分の眼で、こうやって、本当にどうなってるか、徹底して研究して御覧なさい。何でこの通り、ずーっとこうなるんですか、この通り。自分で何かその通りしようと言う気配は全く無いのでしょう。眼がこう有るんだけで、こうなるでしょう。その通り見ようと思わなきゃ見えないかって言うと、そんな詰まらない眼じゃないでしょ。

そんな事しなくても、眼はこの通り、こうやって。この通りって言う事は如何いう事かって、詳しくこうやって見ていくと、入れ替わるのか、前に見てたものと次に見えるものが入れ替わるのかったら、如何ですか。皆さん、こうやって、入れ替わるんですか。自分の眼で勉強するんですよ。究徹する、究め尽して、徹し切る、本当に如何なるか。入れ替わった試し、ひとつもないですよ、入れ替わった事は。こんなに違うんですよ。私達が考えてる事とこの目の様子は、徹底違います。

難しい事一切無いな。何にも難しい事はない。この通りこう。まだ一杯出てきますよね。どうしてすっかり離れ切っちゃうのか、前の事から。前の事は確実に無いんだもんね、こうやって。何かして離れたっていう事でもない。捨てきったとか、言う事一切しないんだけども、そう言う風に出来てる。問題が起きない様に出来てる。道元禅師とか如浄禅師って言う方が何で凄いかって言うと、たった是だけの自分自身のものの上で、これだけの事を見るって言う事ですよ。本当にそうやって勉強してきたんです。自分自身で、自分自身の身体で。他の人たちは殆ど理解なんですよ。

書いてあるものを見て、それを理解していくんです。道元禅師は実証してきたんだよ。一々其の書いてある事が本当かどうか、この身体で。そう言う人たちです、如浄禅師にしても。こんなに素晴しく出来てるんだけど、これを使わないんだもんね、私達は。やっぱり、それは理解しただけで終わって。そうじゃない、この内容を使うんでしょう、この通り。こうやって生きてるんでしょう。やれてる、だからいいんじゃないですか、念をおしますけど。

これからそれをどうやって、そう言う風に作って、毎日の生活の中で生かすかなんて言う様な、そんな悠長な事じゃなくて、今、実際に誰でもが、そう言う風にきちっとこの目がやれてる、だからそのまま頂いて、そのまま生活すればいいんじゃないですか。使わないんだったら、宝の持ち腐れですね。これだけ話しても、考え方の方で使うんですよ。考え方の方を大事にするんですよ。自分の事実がそう言う風になってる事を、そのまま使っていく人は殆ど居ない。

そのために、所謂何回、長い間、聞いて、聞いても中々納得がいかないな、って言われるけども、納得はここ(頭)でやるんじゃない。事実が教えてくれるんですよ、否応なし。事実で降参するだけです、こっちは。お手上げになるだけです。私の追求する事では間に合わない。それで自己を忘ずるとか、自己を離れるとか、自己を忘れるとか言う風な言葉が出てきます。事実に参ずると、必ずこんな自分の考えてる様な事なんか、皆どっか行っちゃうんだよ。

皆さんが生活してる中で、知ってるのは、人の為に一生懸命やり始めてる時に、見て御覧なさい。自分の事を気にかける人は一人も居ないじゃないですか。それが素晴しい生き方をしてるって事でしょう。自分が回って探さなくても良いんですよ。人の為に本当にやって自分を忘れている時が、このものが最高の生き方をしてるでしょう。それだのに、何か人の事をやって、自分の事をやってないなって思う人が時々いるもんだから、変になる。そうじゃないでしょう。

この前、NHKなんかみてた。あれは何だろう。天体望遠鏡か何か、砂漠の中に何かある。アメリカや、後どこだったか、2,3カ国が共同で開発して、大きな天体望遠鏡、それをまとめてる方が日本の方でしたね。40代の男性、やっぱり凄いなーと思った、発言が。「私は自分の事一切考えた事無い」って。「これが本当にただ成功して、皆さんの役に立つのに如何したらいいか、それだけを考えてチームをまとめてます」って。

初めに参画した時には、日本なんかその枠の外に置かれて、一切問題にされてなかったんだけど、その人が、コツコツそうやってやって、日本の技術を伝えた。今は世界の人たちをまとめる位置に立ち、その若い40代の人がいる。吃驚する。やっぱり凄い人だなって、私、思いましたね。

私達が力が出ない時には、間違いなく自分の事を考えてるんです。自分の事を考えたら、力が出ないね。人のためになんか、とっても力が出せない。これ(自分)を先ず守るんだもの。だけど、これを守った後、余力があったら、人のために何かやろうってだけですからね、大した力が出ない。だけど力のある人は、こんなものは如何でもいいって言うんです。だけど、どうでもいいいって言うんだけど、人の為にやってる事がこのものの全てですからね。このものを生かしてる全てですからね。

そうは思えないんだよね、人の為にやってると思うと。ものがよく分かってる人はそうやって自分の事を捨てるって言う事が、本当にこのものを生かしている時の在り方だって事を知ってるんでしょうね。恐ろしいなと思う位、なんだか力のある言葉だね、聞いてて。実際にそれが役に立つし、動かすんだから、凄いなと思う。だから何時の時代でも、そう言う人が歴史上に居るんでしょうね。

奥書の所を見ると、吉峰寺におられた時の話なんでしょうかね、十一月六日。道元禅師が43か44歳位。この時の吉峰寺。吉峰寺は雪が深いので、冬は殆ど閉鎖されて、お寺に寝泊りする人はおりません。最近はどうか知りません。少し雪が降る前か、それ位雪の深い所です。「深雪三尺大地漫漫」まあ雪がかなり降ってると言う事でいいですかね。

時間があれば、いっぱい色んな事が、道元禅師はこうやって喋る事もあったろうし、書いておきたくなる様な、兎に角面白い凄い方ですね。芥川とか直木賞とか言う話とは違ってですね。幾らでも、書くものが沸いて出て来るのでしょうね。触れると書いておきたくなる、伝えておきたくなる、言う事でしょうかね。手当たり次第。

「もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、」この位読んでおいたら、いいでしょう。自分の中に変なものの見方や考え方が、ふっと起きるって言う事が、もしもおのずから自魔のきたりて、と言う事でしょう。梅花はお釈迦様の眼の様子、「眼睛ならずとおぼえば、思量すべし。このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。」

今、皆さん方が眼に梅の花を触れて見てる時の事を言っておられます。それは御釈迦さんの見てる様子じゃないじゃないか、私が梅を見てる様子じゃないかって、もし思う様な事があれば、って言う事でいいでしょうか。それが自魔が来ると言う事でしょうか。この他にないのでしょう。

お釈迦様が梅の花を見てるって言う事は、今自分がこうやっている様子以外に無いのでしょう。だけど、ふっと思うんですね。これは私が見てる事だ、お釈迦様が見てる事ではないな、それは誰も常識としてそう言う風な見方を起こすじゃないですか。これは(自身を指して)自分だって。こうやって、今自分が見てる梅の花であって、お釈迦様の眼で見てるって事ではない、って言う風に思うでしょうか、思わないでしょうか。ふっとそう言う事思うんじゃないですか。

だけど、よーく自分見てみると、これ以外にないんですよね。何時の時代でも、誰でも必ずものを見るって言う事は、こう言う風な見え方しかないですね。自分の眼でものが見える以外にないんですね。他の人の眼でものを見るって事はないですね。お釈迦様も私も出て来ない。それだのに人をみますから、これは私が見て、お釈迦様じゃないなって、そうやって思うんでしょうね。よくよくそこの処を見てごらん。

「このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらん」言い分は誰でも本当にこう言う風にしかないよって言うこと言ってるだけですよ。「眼睛とみん」それは本当に眼の様子なんでしょう。梅の花がその通り、梅の枝がその通りこうやってあるって事が、眼の様子なんでしょう。その時は眼は何処にも出て来ない。そこに梅の枝があるだけ、見えてるだけ。それが本当に眼晴、眼の様子なんでしょう。

「そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのときも対面不相識なるべし」面と向かっておっても、その事がどう言う風にあるかって事は知らない、「対面不相識なるべし」「相逢未拈出なるべきがゆゑに」実際触れているにも拘らず、在り様ですね、実際に触れているにも拘らず、未だ拈出せずですから。触れているにも拘らず、その事に気が付かない。自分の本当の在り様だって事に気が付かない。せいぜい眼の様子だって思う位。本当は全身心の在り様なんでしょう。その時、それが。底抜けと言う様な事。

これ、ある日、又こんな事、ふっと何か道元禅師が書き残されたんでしょうね。何時と書いてないでしょう。と、言う様な事で、思い出したのが、沢山ここにあるんですね。何人かの梅に対する詩が。頭のいい方だね、こうやって色んな人の作った詩が、こうやってふっと思い浮かぶ。だから漢詩が出来るんでしょうね。漢詩作るのに、この位色んなこと、こう文字が思い浮かべなかったら、何て言う字で書こうって、中々詩に出来ません。凄い人だなと思うんだけど。

まあ、それはそれとして、今の一文の所だけですると、こう言う事なんですね。私達が問題になるのは、ふっと自分の中で、自分の考え方で今の事実を眩ます。違ったものの見方をしてしまう。事実でないものの見方をして、とんでもない思いを起こすんですね。よく言うんだけど、二つも三つも、こうやって、今こう向かっているものに対して見方が起きるって事はないです。これに向かったら、こうやってこれに向かった時の見え方、本当にただそれだけがあるだけです。いろんな見え方が、こうやってした時に、出てくるって事はないです。やって御覧なさい。色んなものの見え方が出て来るって事は、ありません。必ずその通りの事があるだけです。

まあ、そうやって眼睛を使って究徹するんですね。それが、私達の修行なんですよ。事実は人を騙しませんから、やってください。大丈夫です。事実は人を騙しません。人は事実に騙される事はあるかも知れません。それは今出て来た様に、自魔って言って、自分の中に魔がさすんですね。ふっと自分なりのものの見方、考え方を起こすと、それを魔がさすと言います。そうやってものの在り方を歪めて扱う様になる。それは他の人がやるんじゃない。言う様な事も知って置いて頂いて、まあ年の初めに、もう一回勉強の仕方、修行の仕方として、こう言うものを参考にして、おさらいをしておきたいと思います。

音声はこちら ↓ 
 「しかあればしるべし」と言う処から。「釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世をまつ、尊者いかでか釈迦牟尼仏をみざらん。」これは、波斯匿王がって言う事でしょうね。歴史上の事を、波斯匿王が取り上げて、御釈迦さんの弟子として、面受の弟子としてですね、お悟りを開いておられるけども、これから弥勒菩薩が出て来る、それを待っておられる。

そう言う背景があって、どうしてあなたは、お釈迦様が亡くなったこの世に居ないのに、お釈迦様を見る事が出来るかって、まあ非常に素朴な質問ですね。だから仏を見るって言う事は、そう言う風に波斯匿王は理解をしてる。まあ極普通に、歴史上の人物だけを仏として扱っているのかも知れませんね。

それに対して、こう言うことは「この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。」こう言うものの見方は本当のお釈迦様を知るという事ではないよ、と道元禅師が指摘されております。じゃどうかって言ったら、「釈迦牟尼仏のごとく見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学しきたれり。」と言う事が見仏だという風に学ぶべきだ。お釈迦さんが、如何いう風な境涯になったか、何に気づいて悟りを開かれたか、仏と言われる様になったのか、と言う事を、私達は勉強すべきだ、言う事ですね。

そうすると、各自、自分自身の上で、自分自身がどう言う風にあるのかと言う事が、本来の自己を見つめると言う事ですね。本来の自己に出会う。そう言う事がお釈迦様がやられた事で、それを、本来の自己に出会ったと言う事が、自覚として仏と言う言われ方をしてるって言う風に勉強すべきだと言う事です。

歴史上、仏教学とか言う様な学問があって、勉強する時に、一つは歴史上のお釈迦さんを対象にして勉強が進みますが、私達は歴史上の釈迦に会う事は無理です。間違いなく無理です。だけども、歴代の祖師方も釈迦に会うって言う意味合いは、お釈迦様が本当に知りえた境涯、何を一体、如何いう風になって、自分で納得できたのか言う事を、自分の身心身体を持って学んだ時に、あ、なんだ、こう言う事に気がついたのか、こう言う風になってるって言う事だったんだって言う事が分かった時に、お釈迦様に出会ったと言う風に受け継いでる訳ですね。

これ学校でもそう教えるべきだと思うんです。そう言う事が少なくなって来てますね。大学なんかでも。今の人がどんなにしたって、お釈迦様に会える訳がないじゃないかって言われたら、もう仏教終わりですよ。学ぶ用ないじゃないですか。そんな学問じゃないです。それは、普通に考えたって、わかりそうだと思うんだけど、結構それが通っちゃうんですね。恐ろしいことだと思う。

で、波斯匿王はこう言う内容を、賓頭蘆尊者から承って、「波斯匿王この参学眼を得開せるところに」、こう言う事を聞いて、私が思ってた事とは違うんだ、本当の仏様に出会うって事は、そう言う事じゃないんだ、って言う事が分かった処で、賓頭蘆尊者が、こうやって、眉毛を策起したんでしょ、「好手にあふなり」

昔の話じゃない、今、目の当たりに仏様がこうやったら、昔も今もですよ、お釈迦様がこうやろうが、賓頭蘆尊者がこうやろうが、今こうやったら、その通りの事が、昔も今も本当にそう言う風な事が行われている、自分の様子として。そう言う味わいですよね。昔の人が、パン!(机を打つ)こうやって聞いても、今の人が、パン!こうやって音を出して、その通りに昔も今も、音がしたら必ず音がした様に、必ず音がした様に昔の人もなったし、今の人も音がしたら音がした様に必ずなる。それが誰しもの本質ですからね。

そんな事位で問題が解決するかって言いたいとこでしょう。この音パン!がしたら、その時その通りにきちっと聞こえたら、完全にマルでしょ。合格でしょ。違いますか。パン!こうやって音がした時、パン!その通り、その通り聞こえる様になったら、バッチリでしょう。ええ。後、何を求めるんですか。パン!それ以外に。音がした時、その通りに間髪を入れず、その通りに間違いなくきちっと聞こえるのに、後何が欠けているんですか。何が不足なんですか。

で、人間はたかが音がした時、その通り聞こえる位でって、そう言う風に思うんでしょうねえ。だから、こう言う今の事実に、こうやって触れていてもわからないでしょう。こう言う風にやられても(眉を上げる)、何をしたんだって、目にゴミでも入ったのかって思う様な位にしか受け取らないでしょう。

「親會見仏の道旨、しづかに参仏眼あるべし」と言う事は、仏眼に参ずる、仏の眼ですね、仏としての眼。もの本当に正しく見る眼ですね、に参ずるって言う必要がある。親しくって言う事は、かって親しくって言う事は、こうやったら、もう抜き差しならない程、今、こう言う事実だけでしょうが、皆さんが見てる通り。他にはないでしょう。それが、かって親しくって言う事でしょう。

今私がこうやって、皆さんが、私がこうやってる処に触れたら、これ以外にないでしょう。そう言うのが、かって親しく「親會」って言われる様子でしょう。仏を見奉るって言うけど、本当にそう言う風にしか在り様がない、徹底して。

微塵も疑いがない程、自分自身の本来のあり方に触れてるでしょう。騙されるひとは一人も無いでしょう。こうやってやって。そう言う処のものの在り方を自分の眼に親しく参ずる要があるのでしょう。仏眼としての眼に。持ち前の仏眼です。凡眼じゃない。「この『春』は人間にあらず」人間の考えてる様な在り方じゃないでしょうね。

しかも「仏国にかぎらず」仏の世界だけがって言う様な範囲でもない。そう言う風に出来てるでしょ。それは梅の枝に皆さんが向かえば、必ず誰でもそうなるんでしょう。梅の枝に向かえば、梅の枝に向かった様に否応なしになるんでしょう。それ以外の見え方はしないのでしょう。それ以外の生活は無いのでしょう。眼に聞いてごらん。こうやって梅の枝に、こうやって向かった時に、それ以外のものの見え方がするかどうか。仏様だけがそう言う風に見えるのか。まあ、そう言う風な事が書いてある。「なにとしてか」その様な事を自覚できるのかっていうんですね。「なにとしてかしかるとしる」どうしてそう言う様な事が本当に納得がいくのか。

「雪寒の眉毛策なり」さっきちょっと、この部屋で寒いって言ってましたけど、そう言うことでしょうかね。ハーって言う様な事なんてしてるんでしょう。それは他人の身体でやるんじゃないですね。「ハーハー」って(手に息を吹きかける)なんとしてか知るって、雪に寒しとありますが、他の人の事じゃないのですね。何千人何万人居ようが、皆各自、自分自身の様子の上でしか、この事は味わう事が出来ない。これを疑う人居ないのでしょう。「ハー、ハー」(手に息を吹きかける)ってやって、本当に寒いのかしらって、誰の事だろうなんて疑う人居ないでしょう。こうやって。そういう風に出来てるでしょう。「なにとしてかしかるとしる」

下の方に雪の様に白く寒いって書いてある。そう言う風に読むのかしら。理解するのかしら、雪寒て。眉毛の事だって言う様にかいてあるのね。「雪寒の眉毛策なり」白眉って言う風に
理解してるのかしら。雪寒。

↑このページのトップヘ