shobogenzokandoのblog

This blog presents Kando Inoue roshi's activities, mainly his dharma talks of shobogenzo in English. Kando is the top advocate of shobogenzo by Zen Master Dogen.

2018年10月

あとがき
 梅花の巻は、平成24年9月から25年2月にかけて、岡山県倉敷市玉島の円通寺講話会にてご提唱されました。老師の許可をいただいて、録音を書き起こし、ブログ「正法眼蔵を学ぶ」に掲載していたものです。今回、より読みやすい方法をと、電子書籍にいたしました。
 梅花には、道元禅師の師、如浄禅師の偈が多く出ています。 梅花の言葉通り、美しい巻です。
 井上貫道老師は、ご文章にそって、難しい語句を丁寧に説明してくださりながら、道元禅師の示される処を読み解いて下さいます。「私のは新訳と言われるでしょうね。」と話された事があります。語句の解釈研究に陥ることなく、道元禅師の真意を伝えて下さいます。
 ご老師の豊富な体験からの、数々の逸話をお聞きすると、禅を学んでおられる方々のみならず、あらゆる人々が、その時その時を活き活きと生きておられることが伝わります。多くの方に、この電子書籍が届くことを願っています。
 ブログ掲載当初から、書き起こし原稿の点検修正の労をお取り下さっている井上貫道老師に、深く感謝致します。 
                        (二〇一八年十月三十日 龍田 しづか 記) 


著者略歴
井上貫道(いのうえ かんどう)老師 略歴 
1944年、静岡県浜松市生まれ。井上義衍・芳恵の五男。1953年に得度。曹洞宗準師家、少林寺東堂。
発心寺専門僧堂を皮切りに大本山総持寺特別専門僧堂送行後、袋井市可睡斎役寮として長年務める。
少林寺24世中興開山。10代で自覚し研鑚を続け、後に義衍老師より印可証明を受ける。
東京、静岡、関西、岡山など各地の坐禅会に指導に回っている。

参禅会情報・語録・講話録
○ 坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ 井上貫道老師 庵
○ ブログ 正法眼蔵を学ぶ 正法眼蔵を学ぶ 
○ ブログsyobogenzokandoのblog 井上貫道老師:正法眼蔵提唱録井上貫道老師:正法眼蔵提唱録 
○ Zen Satori Info真実を悟るための修行方法に関する日英情報サイト Zen Satori Info
   
著書
○ 『少林寺史』
○ 貫道老師著『げんにーび』現成公案提唱録(定価1,000円)(通信販売:本代と送料  込1,400円を現金封筒にて少林寺まで)
○ 真実、悟り、禅修行とは(1)道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録』(井上貫道提唱、2016年)詳細・ご注文はこちら→書籍
○ご提唱CD 井上貫道老師・禅仏教DVD:『坐禅の仕方・実践』シリーズ DVD 頒布    
○ 正法眼蔵「三十七品菩提分法 提唱録」   書籍頒布

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梅花 Ⅴ_04 _01
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えーそれからもうひとつ、太原の孚上座のお話が、悟道の時に作った詩が出てきます。昔は、悟る前は「憶昔当初未悟時(憶昔当初未悟の時)」角笛ですね、胡笳って言う。

胡笳の一曲「六律にかなわず」って言う事があります。人が亡くなった時、喪狩り笛を吹くと言う様な事かね。ああ言う時の喪狩り笛(蘆の草笛)はですね。音階に例えば、ドレミファソラシドの音階とか色んなものがある。琴なんか六律ですね。六段階の音。いずれにしても、そう言う音階に載せる事の出来ない様な悲しい響きを為すと言う意味ですね。これも多分そうですよね。

「一声画角一声悲(一声の画角一声悲なり。)」どういう事を言いたいかって言うと、響いている音だけでなくて、その響いてる音を耳にして、自分で色んな事をそこに思い起こして、悲しさを募らせていくって言う事がある。芭蕉葉上愁雨なし、ってありますが、芭蕉の葉っぱの上に雨が降った時に、憂いを含むと言う事は無いって言う句ですね。芭蕉葉上愁雨なし。だけども、時の人聞いてあたかも、ハラワタを立つ、断腸、その芭蕉の葉っぱの上に雨が、こう降ってる音を聞いて、人の別れを思った時に、いたたまれないほどになるって言う句なんですね。それ皆人間の感情の話でしょ、情感。

ここも、未悟の時って言うのは、本当にその笛の音をそのまま聞くって言う力が無かったと言う事です。笛の音にはですね、悲しいとか楽しいとかって言う風になってないですよ。それがわかりますかね。聞いた人が自分の聞き取り方の上で、悲しい声に変えた、変えるんですよ。

食べ物でもよく話すように、食べ物にうまいまずいは無いんです。その味がするばかり。だけど、その味がするばかりだけど、その味がするばかりじゃなくて、自分で美味しいとか不味いとかって言う風につける。花を見てもそうです。花が美しいとか汚いって言う風に花は咲いていません。その通りに咲いているだけです。だけど、それ見た人が、美しいとか汚いとかって言う風につけてる。そこら辺の事、私達は結構曖昧なんですね。ちゃんと見てるつもりなんだけど、ちゃんと触れてるつもりなんだけども、そうじゃない。自分というものが知らないうちにそこに入ってる。

仏道をならうというは自己をならうなし、自己をならうというは自己をわするるなりとあります。さっきも話したけど、自分の本当に無いもの、それ自体に触れている、付け足しもしないし、取り除きもしない、一切手をつけず、その事実だけで本当にその事実がどうなってるかって言う処に、こうやって触れるって言う事を、私達は結構してません。だから花を眺めると、美しいとか汚いとかすぐ談ずる。食べると美味いとか不味いとかって言う事の方が先なんです。その前に、そう言う事の入らない味わいって言うのがあるでしょう。事実があるでしょう。何人も犯す事の出来ない、峻厳、微動だにもしないほど確かな事実がそこに展開されているでしょう。

だから法が大事にされるんです。法をみるものは、仏を見るんです。初めっから人の上の教えじゃない、仏法って言うのは。仏様の教えです。人間の教えじゃない。同じですよ、人がやってるには違いないんだけども、人間の上に、自分らしいものを通して触れていく事と、そう言う事一切なしに直に触れている在り様との違いがある。そこには迷いも苦しみも無い程確かな事が展開されている。それを自分で見届けると豊かになるでしょう。ああ本当に大丈夫だと、このままで。

ここは転句のとこで、「如今枕上無閑夢(如今枕上閑なる夢なし)」今はそんなもてあそぶ様な事はしてない。本当に。ここでは「一任梅花大少吹(一任す梅花大少に吹くことを)」って。ここで吹くっていうのは、笛にかけてるんでしょうね。笛も吹くと言いますから。本当は咲くと言う意味でしょ。縁という意味と殆ど同じです、吹くと言うのは。本当にその梅の花の咲いている様子に無条件で触れている。確かさと言っていいでしょう。今までの疑義が全部っ飛んでしまう位、凄い確かさがそこに展開されているって言う事を、自分の悟った時の様子として詠ったんでしょう。

それで、475頁にその孚上座の事が、所謂夾山の典座に開発せられて大悟したという因縁のものが、補注に出てます。475頁の補注です。孚上座はもと、とあります。

ざっと見てみると、「大原孚上座、揚州光孝寺にありて涅槃経を講ず。」「孚上座はもと講者なり」とありますように、涅槃経の講釈を、内容を講義をしてる人だったと言う事ですね。「游方の僧あり即ち夾山の」ですね。旅をしているお坊さんがおられて、たまたま、涅槃経を話している時に、そこに足を止められた。それは雪が深くてですね、雪にはばまるとあります。寺にありて、だから雪が深くなったもんだからしょうがない、そこに泊まる事になった。そして泊まった時に丁度、この孚上座がですね、涅槃経の話をされていたので、ご自分もそこに連なって、お話を聞いたと言う事です。

それで、話がどんどん進んで行く。「講すること三因仏性、三徳法身」そう言う所に、涅槃経のそう言う所になって、その講釈をしておられるでしょうね。「広く法身の妙理を談ず」。「典座忽然として失笑せり」孚上座が話をしているのを聞いて、思わずこの夾山の典座という方がですね、失笑だから、笑ってしまった。人が真面目に話してる時に、クスって笑うって言うのは、凄いまあ失礼な事かも知れない。或いは喋ってる方としては気になるね。もの凄い気になる。「孚、乃ち目顧して」目で顧みて、その笑った方ちょっと見た。お話が終わって、その夾山をお呼びになった。「講罷りて禅者を請ぜしむ」

まあ、何処からお見えになったとかって言う様な事で、お話になるのですよ、向き合って。その中で問うて「某素智狭劣、文に依りて義を解す。適来講次、上人失笑せらる。某必ず短乏せらるる処あるべし。請ふ、上人説かんことを。」私は話はしてるけども、本当は大した者じゃない。かろうじて、そこに言葉があるから、その言葉を解釈をして話している。そうしている中で、あなたが笑われたから、私の話を聞いて笑われたから、きっと何か私の話している中に、問題点があるんだろうと思うんで、どうぞ、そう言う間違った処があったら教えて貰いたい、指摘をして貰いたいって言って話してます。偉い人ですね。普通話をした人は、人がそんな事言ったら、黙って聞けって言う位、怒りとばすかも知れないけど、自分の事よく知っておられる。

それで典座曰く、「座主問わずんば敢えて説かじ。座主既に問ふ、即ち言わずんばあるべからず。某実に是れ座主の法身を識らざるを笑ひしなり。」私は別に失礼な事をした訳じゃない。あなたが話した、法身の話を色々解釈されているのを聞いていて、全くこの方は法身という事を知らないなあって言う事があって、それでつい笑ってしまったって、こう言ってます。あなたがその様に私を、私が笑ったのを見て、こうやってお招きして、それが私のどっか非があるかって聞かれるから、そこまで言われるんだったら言いますけど、って遠慮しながら言ってますね、夾山。

それに対して、「此の如く解説するに、何れの処か不是なる」私はあの様に話を、法身の内容を説いたんだけど、何処があなたが指摘するよう駄目な処、過ちがあるんでしょうかって、あくまで法に対して親切な勉強ぶりですね、大原の孚上座。それに対して夾山と言われる典座、職をしていた方、「請ふ、座主更に説くこと一遍せよ」もう一回話してください。孚曰く「法身の理は、猶ほ太虚のごとし。竪に三際を窮め、横に十方に亘る。八極に弥綸し、二儀を包括す。縁に従ひ感に赴く。周遍せずといふこと靡し。」って再び説いたんですね。

典座曰、「座主の説不是なりとは道はず、只だ法身量辺の事を識得して、実にまだ法身を識らざること在り」言う事はですね、それらしい事はちゃんと言っておりますけども、まあ、もっと酷い表現をすればですね、本当にあなたはその事を見て来ないのに、見て来た様な嘘を言ってるじゃないかと、こう言う事です。本当に見なくたって、書いてあるものを勉強すれば、私達だってそうでしょ。大体の事は今だって言えるでしょ、勉強して。そう言う指摘です。頭からバチャッとこう否定したい処がこの夾山と言う人の、何だろうね、懐の深さですかね。

さすがあなたはよく勉強しておられて、法身の事をこうやって説いて、上手にお説きになる。それは間違いだとは言わないけれど、あなた本当に法身の真相そのものを、自分で見届けた事があるのでしょうか。誰か人の言ってる話を鵜呑みにして話してるだけじゃないのかって、こう言ってる訳ですね。きついとこですね。それでも通るんですよ。通りますよ、それで一般には。だけど仏道の修行するって言う事では、そんな事では許されない。自分の中にも疑義が残るでしょう、人から突かれなくても。

えー、それを聞いてですね、孚上座が言われるのに、「既に然も是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし。」だったら、本当の様子をぜひ伺いたい。この時、それだけ指摘した方の夾山が自分にその体験が無かったら、こりゃわやですね。話にもならないんだけど、ちゃんとしてるから、それに対して対応するんでしょう。

典座曰「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室中に於て端然として静慮すべし。心を収め、念を摂し、善悪の諸縁一時に放却し、自ら窮究看すべし」要するに本当に坐禅をしておらん、とおっしゃっております。考え方じゃない。事実を、本当に坐禅をして事実がどうなってるか、事実に学んで見なさい、とこう言っておりますね。

ここにも出て来る、「善悪の諸縁一時に放却し」とある。要するに自分の考え方で評価しない、ものに対して良いとか悪いとか。花で言えば、美しいとか汚いとかって評価をせずに、本当にそこに花があるんだから、その花の在り様そのものに、自分の評価を一切入れずにふれてごらん、と言う。そうすると、花の様子がよくわかる、とこう言う事でしょう。

坐禅の時もそうです。色んな事が坐禅している時に、自分の活動があるけど、それに対して人間と言うのはすぐ自分で評価をする。例えば、何か思いが出てくると、思いに手をつけるなって言われてるから、手をつけない様にしなきゃいけないって、そう言う風な事やったりするのでしょう。ほっとけって、ほっとけば出て来ても、そのままほっとけ、あるいはそのまま流しとけば、って言うと、そのままほって置く様な、流して置く様な、そう言うに扱うんでしょ。人間がやってる善悪諸法を一時に放却してる状況ではありません。皆手をつけてる様子ですよね。

知らずに手をつけちゃうんですよね、そうやって。教えられてる事を基準にして。何もしない様にって言えば、何もしない様に守る。そう言う事じゃない。何もしないって言う事は、そう言う事さえもしないのでしょう。手をつけないって事は、手をつけない様にする事じゃないのでしょう。

ここら辺が本当によく話してみないと違うんですよ。真面目に一生懸命そうやってやってるから、ずれてくるんです。自分では言われた通りの事でキチッとやってると思ってるんです。それは諸縁を放捨してない。自分の考え方が、あくまで聞いたものに対して、自分の考えで受け取った受け取り方で、修行してるって言う事が、この辺のとっても大事な事でしょう。

「極めつくしみるべし」本当に事実がどうなってるか、徹底自分の見解を入れずに触れてごらん、とこう言うのでしょうね。そして言われる通り「孚、一に所言に依り」夾山がおっしゃった事に拠って、「初夜より五更に至り」「鼓角の鳴るを聞きて忽然契悟せり。」一晩朝になるまで坐ったのでしょうね。そして明け方に太鼓がドーン!と鳴った。それによってアッって気がついたんですね。 

「便ち去って禅者の門を叩く」だから昨日教えてくれた夾山の所に行って、自分の心境を告げたんでしょう。叩くだから、先ず行ったんですね。行ったら、典座「誰だ」って言う事です。戸を叩くやつは誰だって言う事です。孚云「私です」。で典座咄して曰く「汝をして大教を伝持し、仏に代わって説法せしむ。夜半什麼としてか酒に酔うて街に臥する」この夜中にまだ夜が明けない頃に、丁度お酒によって町の中で寝てしまう様な、いう様な事挙げてますね。ちょっとたしなめたんですね。

普通だったら、夜が明けて、ちゃんと衣服を整えて、そして香をたいてお拝をして、そして参禅をする。これがまあ当時の在り方です。それだのに、まだ夜中寝ている頃に叩き起こしてって言う事ですね。非礼なんでしょう。そう言うの丁度酔っ払った奴が所かまわず喚いてる、夜中に入ってきたって言う様な表現をしております。だけどそれにはそれなりの意味がある。そんなに急を要するって言う事は意味があるのですね。そこら辺が次の様子なんでしょう。

孚云、「自来の講経は生身の父母の鼻孔を将って扭捏せり。今日より已後は、更に敢て是の如くならじ。」今迄は本当にいい加減な事を自分でさも本当らしく話して来たけど、もう二度とそう言う間違った事は、これから先しません、とこう言ってる。まあそう言うのが、一段の、碧巌の方にも出て来るのでしょうかね。それがここの「孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。」今そう言う風な因縁話があって、その話がそこに展開した事ですが。

「これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」まあここでは、夾山の典座和尚さんに教えを乞うて、一晩坐って、朝の太鼓がドーン!と響いた。その事に拠って本当の在り様が手に入ったって言う事ですね。これが梅花の春風、春風が吹いてきて、梅の花が咲いたと言う事でしょう。そう言う風に普通は読むのでしょう。春風が吹いてきて、梅の花が自ずからそこで、何輪か知りません、大少ですから、花がさいた。太鼓の音に触れただけでそう言う事が、どうして悟ったか、理由は無い。ダーン!(大きな声で)それだけですよね。

それまでは、太鼓の音をまさしく聞いてた人なんですね。ああ、太鼓が鳴ったって、その位にしかやってない。そう言うのを、お父さんお母さんの身体を借りて、この世に出て来た生身の体と言うのでしょう。そう言うでっちあげた教えられた話。人から聞いて教えられた話であって、自分で本当に触れた自分の内容ではない。皆さんがドーン!とやった時に、どうですか。誰の力も借りなくても、その太鼓が一声鳴った時に、どうあるか。そう言う体験をしているに違いない。だけども従来の自分を見る癖がありますから、何だ、今、太鼓が鳴ってる、あれは何の合図の太鼓だとか、そう言うな事だけで生活してる。

まあ修行で寺に行くと、鳴り物が基本ですから、まずそうやって教えられるから、幾つ鳴ったらどうだとか、何時鳴ったらどうだとか言う事を覚えて、そう言うものの上から太鼓の音を聞く癖がついてる。それはここで言う様に、人に教えられた聞き方でしょう。

そうじゃなくて自分でなければ絶対聞く事の出来ない真相があるでしょう、一人一人。だって生涯人の耳を借りて聞かないのですよ。言っときますが、音を聞くのに、片時も人の耳を借りて聞いた音はないのですよ、生涯。だったら、騙される事ないでしょ、聞いて。何で聞いたものが、腹が立ったり騙されたりするんですか、自分自身がやってる事で、自分自身が騙される様な愚かな事がありますか。


眼だってそうでしょ。自分自身の持ってる眼以外のもので、見た物は私達は無いでしょう、生涯。一切他の人の眼を借りて、物は見ない。借りなくてもちゃんと見えるのだからいいじゃないですか。他人の見てるものと、自分の見てるものとで、何で争わなきゃならない。まあそう言うな事も出てきますね。

時間もうちょっとあるんですが、どうしましょうか、一応梅花の巻き、終わってる。 (終)

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_03_01
梅花 Ⅴ_03_02

次の句ですね。五祖法演禅師のものとして、まあこれ丁度今頃の事考えてみたらわかるでしょ。東風のほうから寒風が吹いてきて、日本の国に寒い風が来て雪が例年よりかなり積もっております。そう言うな事ですね。北風。「朔風和雪振渓林(朔風雪に和して渓林に振ひ)」まあ、そう言う位でいいじゃないですか。

そして雪が降り積もると、万物を隠し、「万物潜蔵恨不深(万物潜し蔵るること恨み深からず。)」何もかも雪の中に、こう閉ざされてしまう、その中でただ山の上に咲いている梅だけが、その雪の中に紅一点と言う様な事ですかね。或いは「千山白漫々孤峰何によってか不白なる」。そう言う句もあります。見渡すかぎり山が真っ白なんだけど、どうしてあそこの山だけが黒いのかって言う。そう言うまあ公案でしょうね。そう言うものを見せております。

それは雪が幾ら深く降ったって、梅ノ木が雪に覆われず出てる事もあるでしょう。ここではあの梅と言ってますが、本当はお互いの事でしょう。そう言う北風が吹いて、雪が舞いそしてあたりを全部埋め尽くす中に、どんなに埋め尽くしても、自分自身は隠れる事はないですね。真っ暗になっても、自分自身は隠れて分からなくなることはありません。不思議なもんですね、自分自身て。人から聞かなくても大丈夫ですね。自分自身の様子って。真っ暗で、私何処に居る、なんていう人は居ないんじゃないですか。見えないから何処にいるって、そんな事ないでしょ。所謂見えなくてもはっきりしてるんですよね。分かると思うよ。

「唯有嶺梅多意気(唯嶺の梅のみ有りて意気多し)臘前吐出歳寒心(臘前に吐出す歳寒の心)」て言うのは、「ウ、ワー!だんだん寒いなー」(大声で)って言ってる様な状況でしょうかね。身に徹して寒い。一番よく分かる。他人の事じゃないもんだから、自分自身の様子なもんだから、誰に尋ねなくてもよく分かりますね、寒いって言う事が如何いう事か。説明なんか何も要らんねぇ。

まあそう言う事でいいと思いますが、道元禅師は「しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。」本当にこの身の在り様以外に、生涯生きていたってないじゃないんですか。此処に説かれている様に。誰でもそうでしょ。短い時間を言えば、朝から晩まで一日の様子を見て下さい。本当にこの一身、自分自身の在り様だけが、ずーっと朝から晩までずーっとあるだけですよ。その在り様が展開されてるだけですよ、各自。ここでは歳寒心といってます。

「梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。」物と本当に一緒になって、ありとあらゆる千変万化しながら、ずーっとこうやって生きております。たまたま此処では、北風が寒い寒気を日本に連れて来て、そして上空のものを冷やして、そこに雪を降らしていく。私達もそう言う中にいると、それと一緒になって、その寒気の中で、雪の降る中で生活しています。

「はかりしりぬ、風をひき雪をなし」その「ひき」って言うのは、永平寺の本山版によって改めたとあります。元はシキって風をしきって。風をひきって言うと何かインフルエンザにかかったみたいに読むかも知れませんが、そう言うシキって事じゃないでしょ。風と共にって言う事でいいでしょうかね。一緒になりながら。

座布団をひき、ひくとかって言う意味ではないでしょうね。雪をなす、風を連れて来て、寒い風、北風を連れて来て雪を降らすと言う様な事でしょうかね。「歳を序あらしめ、」秩序の序、此処ではなんですか、一年に四季の順序がある。まあ雪が降る頃を、私達は冬と大体位置づけてるんですね。一年の中で。寒い時を冬と言って来たんですね。だから暦の上と実際がずれて来る。実際と言うものはずれませんね。暦はずれても。実際はずれません。寒い時は寒い、暑い時は暑い。

日本の様な国にはその四季があるもんだから、その中で色んな文化が育ってですね。私の家内なんかでも、和服の着こなしを勉強してるんだけども、つまらないとこでこだわってるんだなと思うんですが、暑いのに、今こういうものだって言って、着るんですね。暑かったら、もっと薄いのでいいと思うんだけど。寒くてもおなじですよね。桜の花のついてる模様とか梅の花がついてる模様とかって言うのは、なんだか聞いてみると、咲く前に着るって言ってますね。その時期の時には、その花のは着ないとか。何でって言ったら、負けると言うんでしょうかね。実際に、桜が咲いてる所に、桜の花の模様がついてるものを着ていったら、絶対その実物の桜に負けるのでしょうね。だからそれよりも先取りをして、少し前に着るって言うのが大体、作法だって言う風に決めてあるらしい。厄介な事になって。そう言うのもここらで言う「歳を序あらしめ」るのでしょう。

「および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり」。本当にこのもの無ければですね、この自分がなければ、ありとあらゆるものがあるという事が出て来ないんですね。不思議ですね。このものが消えると、一切のものが一緒に消えるんですね。ところが、人間の頭では、そう言う風に納得出来ないですよ。人間の頭って言うのは、私が全部、死んじゃって無くなったって、円通寺は無くなる訳はないなって、そう言う風に認識するんですよね。で、そう言う認識をした上で、お互いに話をする時に、あれも死んだけども、円通寺は無くなってないじゃないか、ホラ、人が死んだって無くなりゃしないぞって、こう言うんですね。そうすると、皆も、ウンそうだねって納得してるんだけども、自分が死ぬと言う事になると、一切が無くなるんですよ。

大地有情と一緒に出てきたんだ、これ、生まれる時。これが生まれたら、大地有情が全部出現したんだ。これが亡くなると、一緒に全部消えるんです。そう言う風に、これ活動してます。考えてる事と事実は随分違う。皆、梅花力と言われてますが、本当に各自の在り様でしょう。各自そう言う風になってる。だからすっきりするでしょう、終わったら人生。生まれて来る時もそう。

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梅花 Ⅴ_02_01
梅花 Ⅴ_02_02

先だって東京に行って、雪がひどくて帰れないもんだから、ホテルを検索して、急なもんだから、泊まる所が無くなった。しょうがないなと思って、友人に泊めて貰った。そしたら、歓迎レセプションみたいな事になって、その内、津軽三味線を先ず弾いてくれた。男性ですよ。名取位まで行ってる。それが終わったと思ったら、今度はそこらにある剣だとか棍棒だとか、
色々な物持ってきて、武術を披露してくれた。

書道も四段だとかって言って、机の上に毎日書いてるらしくて、書いたものがあった。その後、手紙が来た。この前どうもって言って、手紙の中に、書道四段だけど、こんな字で恥ずかしいって書いてあった、自分の字が。だからお手本があって字を書く時には、それなりの字が学べて書けるんですね。だけども、自分で手紙を書こうと思うと、学んだ文字を使って書こうとする。本当は最初から自分の文字を書けばいいのにね。丁寧には書いてありました。

もう一つ武術を、その教えてくれた時に、ご本人が言ってたんだけど、あのやっぱり、前にそう言う事があったんでしょうね。人が来た時に、自分の持ってるものを披露して接待しようって事で、奥さんに「あの道具は何処へやった」って言って、探さしたんですって。そしたら、「あなたそれ、何するの」って言ったら、「いや、今剣法やって見せるので欲しいから、何処にあるか」ったら、「それはいいけども、実際にこんな事習ってて何の役に立つのって。もし敵が攻めてきた時、あの道具何処にあるかって言って、それ探してから、それで相手するのか」って言って奥さんに言われて、グーの根も出なくなって、「俺は何を一体やってるんだろう。武術ってこんなものか」って言ってましたね。

まあそんなんでしょう。考えてみれば、そんなの武術じゃないですよね。探してるうちに、終わりですよ。だけどそれがないと習ったものが披露できないって言って、それ探すわけですね。面白いなと思って。そう言うご夫婦の会話見てても。仏道の在り様って言うのは、そう言う事の時にもちゃーんと、人が如何に詰まらない事やっているのかって教えてくれるのでしょうね。

その方は18歳の時に一人でアマゾンに行って、部族の人と生活をなさった経験があったりなんかして面白い。一つの事やり始めたら、とことん究めないと自分で気がすまないタイプらしくて、最終的に禅に興味を持ってやってます。だから真面目にやってますね。そんな家に泊めてもらった、雪で。面白い事になる。まあ息抜きの話ですけども。

「古今寥々たり、何の極まりか有らん」本当に皆さん方のこの身体一つですよ。よーく学んでみると、飛びっきり上等な持ち物ですよ。出来栄えですよ。それだのにそれを知らないと、自分で人生を誤ます、嘆いて。「しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。」梅花の働きと言っていいでしょうか。働きって言う事は、皆さんが目と物とが触れると、必ずそう言う風に否応なしに、何者からもすっかり抜け切って、今の在り様だけで生活が完全に出来るって言う事ですね。

そのもの以外に見えないでしょう。皆さん見てください。こうやってて、そのもの以外のものは見る事ないでしょ、見えてる事の他に。何処へこうやって目を向けても、そのもの。要するに前に見たものが気にかかる人はいるかも知れませんよ。前に見たものが気にかかる人は居るかも知れませんけど、自分の眼がどうなってるかをこうやって検証してみるとですね、以前のものが何処にも無い事がわかるでしょう。気になってるはずなんだけど、無いんですよ。実際の眼の働きって言うものは。

どっちを皆さん信用しますか。自分の頭の中で先っき見たものが思い浮かばれてですね、それを問題にする方を信用するんですか、それとも自分の眼を、本当にこうやって物を見てる時に、今のもの、他のもの一切なしに見えてる、こんなに底抜け素晴しい働きをしてる方に賛同するか、どっちでしょうかね。

もし仏道を学ぶ人だったら、この事実に学ぶのでしょう。自分の今の眼はこう言う風になってる。考え方じゃなくて。これはこれから作るんじゃない。既に出来てる成仏なんですよ。そんなにうまく出来てるものを、自分が使ってるにも拘らず、それを知らないから、無いと思ってるのと同じですね。貧乏人だと自分が思ってるのと同じなんですよ。こんな豊かな生活が出来てるにも拘らず、これ知らない。そう言う人に限り、まだ何かしないと気がすまない様な生活になるから、不思議ですね。ものが分からないと、余分な事一杯やるんだよ。疲れ果てちゃう。

「行雲行雨は梅花の千曲万重色なり。」無限の、さっきやりました、何の極まりかあらんて言う、そう言う句を、道元禅師はこう言う風に表すんでしょうね。「千曲万重色なり」限りない働きでしょう。「千功徳なり。」それらも、そう言う事の表現の仕方でしょう。「自古今は梅花なり。」梅に限った事じゃないですよ。梅の花に限ったことではないけども、今梅の花を一つ手折ってですね、その一輪の梅の花を相手に、これだけの仏法を説くのでしょう。たったそれだけですよ。梅の花に触れている事だけで、道元禅師は仏法の真髄を説くんですよ。どうなってるかを。一般の人はただ梅の花をみてるだけです、悪いけど。その位で終わるんです。同じ梅の花と出会っていて、これだけ豊かな内容を知り得る力と、ただ梅の花を梅の花として見えるだけで終わっている人とは違うでしょう。

「梅花を『古今』と称ずるなり。」今も昔も梅の花に触れれば、必ず梅の花に触れた様になると言う事が、その証拠でしょう。昔はそうだったけど最近は違うって、梅の花に触れたら菜の花の様に見えるって、そう言う事はないでしょう。それだから、仏道として信用できるんじゃないですか。人が作ったんじゃないっですよ、そう言う風に。梅の花に触れたら、梅の花が見える様にって作ったんじゃない。一切そう言う所に人らしい気配がない。

因果の道理人我無人、とかあるでしょう。因果の道理、私無し。修証義読んでるから、そう言うのが浮かぶでしょうけど。因果の道理の中に私なし。そう言うものが入らない。本当に目と物とが触れると、梅に触れれば、梅に触れた様になるって事が因果の道理なんです。ここに私がどうかするって気配がない。そこへ入り込んで。それが所謂法と言われてるものなんです。法の在り様ってのは、そう言う風に出来てる。それを私達は自分のこの身心の上で、本当に参究してみるどうなってるか、とことん知り尽くしてみる。そう言う行をしてるんでしょう。

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梅花 Ⅴ_01_02
梅花 Ⅴ_01_03
梅花 Ⅴ_01_04
梅花 Ⅴ_01_05

もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのとこも対面不相識なるべし、相逢未拈出なるべきがゆゑに。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。直に梅花眼睛を開明なるべし、さらにもとむるやみね。

先師古仏云、
明々歴々、     《明々歴々たり、
梅花影裏休相覓    梅花影裏に相覓むること休みね。
為雨為雲自古今    雨を為し雲為すこと古今よりす、
古今寥々有何極    古今寥々たり何の極まりか有らん》

しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。行雲行雨は梅花の千曲万重色なり、千功徳なり。自古今は梅花なり。梅花を『古今』と称ずるなり。

古来、法演禅師いはく、
朔風和雪振渓林   《朔風雪に和して渓林に振ひ、  
万物潜蔵恨不深    万物潜し蔵るること恨み深からず。
唯有嶺梅多意気    唯嶺の梅のみ有りて意気多し、
臘前吐出歳寒心    臘前に吐出す歳寒の心》

しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。はかりしりぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり。

太原孚上座、頌悟道云《悟道を頌するに云く》、
憶昔当初未悟時、  《憶昔当初未悟の時、    
一声画角一声悲    一声の画角一声悲なり。
如今枕上無閑夢    如今枕上閑なる夢なし、
一任梅花大少吹    一任す梅花大少に吹くことを》

孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」
言わんとしてる事はですね、そこにも有りますけども、誰でもが普通に経験してる事だと思いますが、此処にも、臥龍梅と言う名前が付けられた、本堂の前に紅梅がこうあります。ちょっと暗くなったから、花が見えづらいかも知れませんが、咲いております。そう言う、皆さんが梅の花の咲いている所に、こう通りかかって、こうやってやると、梅の花が、枝も勿論でしょうけど、その他の事も全てでしょうけども、代表して梅の花が、こうやって咲いている所に目を向けるとその通りに見えるという事が、ここで取り上げられてる事なんですね。

だから、こう言う様な事は一般にですね、何でそんな事が、その問題になるかって言われる位、あまりにも平凡な事に違いないんですね。だけども、仏道と言う、仏道、仏様の教えって言うものは、そう言う誰しもが、日常生活で使っている上の話なんですね。これはとっても考えてみれば、大事な事でしょう。私達が日常生活無縁の、使ってない世界の話を取り上げて、何かする様な仏道だったら、一般の人に全く必要ないんじゃないですか、最初から。毎日誰でもがその様に使っている中に、私達がもう一度見直さなければならない大切な事があると言う事なんでしょう。


「もしおのづから自魔きたりて、」ってありますが、自分の中で、ふっと何か自分流のものの捉え方、見方、考え方あるいは取り扱い、そう言う様なものがふっと起きると、目と梅の花の関係においてですね、そこに余分なものが、こう生まれてくるんですね。だけども、これが本当に自魔と言われる様なものが無い時には、自ずから眼は梅に触れると、いきなりその通りの事がそこに展開されます。まあ、段階を追って話をすれば、梅の花に向かうと見えるって言う風に皆さんは使っております。だけども、梅の花が見えるって言うんだけども、本当はそんな気配はない。

どういう事かって言うとですね、仮に今皆さんが目を閉じてですよ、目をパッと開けて見てください。パッと。実験だからやってみて下さい。目を閉じて、目を開けて下さい。どう言う風になってますか、皆さん方、その時。目を開けたら見えたって言うんですか。これ普通そう言う表現してるでしょ。目を閉じてて、目を開けたら見えたって言うんでしょう。じゃあもっと丁寧に話をしたら、自分で何か見たらしい気配がありますか。目を開けただけでしょうが。開けたらもうあるんでしょう、イキナリ。開けた瞬間にあるんでしょう。見るって言う様な気配は全く人の上に無いはずだ。そう言う事が、仏道の上で問われてるんですね、日常の上で、私達は。

それが修行なんですよ。修行するってそう言う事なのね。あの坐禅の中でもよく使われておりますね。どれが最初かしりませんが、この調えるっていうんですね。目をパッと開けた途端にですね、その目の前に咲いている梅の姿を、私達は何にも手をつけないのに、その通りにきちっと乱れる事なくその通りに、梅の花の通りに、この身体が頂く事が出来てる、それを私達は調身といいます。身を調えると言います。

ところが一般に坐禅の時に身を調えるって言うのは、そう言う風には受け取ってません。どこかを手をつけて、直して行くって言う風に、調えるって言う字を読んでおります。心だってそうです。本当に何もしないのに、梅の花の所に行ったら、否応なしに梅の花の様に全部なります。これ、自魔のない証拠です。自分の中に余分なもの一切ない時の様子です。

だから坐禅は大安楽の法門なんでしょう。イキナリその事で完成してる。手をつけなくても。何処にも、その、何かしなければこれからちゃんとしないじゃないかって言う気配は一切ないほど、きちっとした事してるんですね。だから、菩提を究尽するの道とあります。本当の、その今の在り様を徹底、知り尽くす唯一の道ですよね。その事から一つも離れてませんから、その事実に触れたら、否応なし誰でも、その事実の通りになる様になってます。

ましてや坐禅は習禅にあらず、練習をしてそう言う風な見方をするのではない。何回もやったら、そう言う風に見える様になる訳じゃない。必ず、皆さんが見てる時そうでしょう。イキナリ一回こっきりでしょう。その時、必ず今やってる見方しか生涯生きててもないですよ。前のものを使って見るって言う事はありません。いつも今の眼の様子だけで、その通り見える様になってる。習い覚えて段々はっきり見えるとか、よく分かる様になる、そう言う様な事ありませんね。ここでは梅花は仏様の目です。眼睛。

「梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし」梅の花とお釈迦様の目の様子が別だって考えてる人がいる。よくよく見てごらん。「このほかに何法」ですね、何か法らしいものですね。「梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。」何をもって眼というのか。眼は梅の花を借りて、梅の花が見えるのを眼の様子と言うんでしょう。だから、眼だけ有って、皆さん方が眼が如何いうものかを知る事は出来ません。眼の対象となるものに触れると、見えると言う現象がありますから、それに拠って、眼は物を見る力が有るって事を始めて知るのでしょう。

要するに、目と物は別々でないと言いたいのですね。その証拠に、皆さんが日常生活、こうものが見えてる時に、眼で物が今見えてるって、誰もそんな事言いません。眼なんかすっかり忘れてます。この見えてる事自体、最初から眼の様子なんですね。それ以外に眼の様子は無いでしょう。だけど、学問をし、色々教えられるもんだから、人間に目と言うものがあって、それが物に触れると見える様になってるって、そう言う働きを持ったものを人間が持ってるから、見えるって教えられたんですね。

だけども、これもよくよく考えてみるとですね、そんな事を学問もしない、誰からも教えられなくても、生まれてから後ですよ、何時自分が物を見たか知らない時から物が見えてるんですよね、小さい時。幼い時自分が物を見てるなんて誰も知りませんよね。何時ごろから、自分が物を見てるって言う様な事が、認識できる様になるんでしょうかね。或いは、もう少しよく使われるのは、これを私だと思う様になったのは何時ごろからでしょうかね。私がいるなんて、生まれて来た子供達は知らないんですよね。これが世の中に出て来たんだけれども、これが私だなんて、そう言う認識は全くなしに生活してる。

じゃ、認識が無いから、物に触れた時に見えないのかって、あるいはおっぱい吸った時に味がしないのかって。おっぱい吸ってるって認識が無くてもですよ、味はちゃんとするんですよ。だけどそれは認識の上で、これはおっぱいの味だって言う風に自覚はしてないですね。そう言う認識はしてない。だけども、間違いなく体感として、水を飲む時とおっぱいを飲む時、身体がちゃーんと違った反応してる。そう言う事は全部人が作ったのでないって言う事の証でしょう。本来のものって言うのは人が作ったんじゃない。

音がすると聞こえるって言うけど、本当に音がしたら聞こえるんじゃなくて、何だろう、音がしたら聞こえるんじゃないんですよね。コン!(机を打つ)わかりますかね、そう言うの。常識の勉強して来た人だと、中々わからないですよね。コン!確かに音がしなくちゃ聞こえないでしょう。コン!だけども、コン!なんだろうね、これね。コン!どうなってるのかね。コン!こう言うのだってコン!耳を持って聞くような人は一人もいませんよね。カチって言うだけですよね。

だから、無眼耳鼻舌身意と般若心経にある。眼も耳も鼻も口も、舌も無いと書いてある。無眼耳鼻舌身意。本当にそう言う働きしてるんじゃないですか。ご飯食べたって、舌が味を味わっているって言う様な事じゃなくて、味がするばかりで、舌なんか何処にもない。痛いーって言ったて身体がある訳じゃない。身体認めてる訳じゃない。痛いって言うだけで、そう言うな事行われてる。そう言うに般若心経の書いてある。無眼耳鼻舌身意、所謂人間が認めている様な、そう言うものが、実際に活動してる時に、何処にも見当たらないと言うのでしょう。

それは眼って言ったら、梅の花なんです。ここで道元禅師がおっしゃってる様に、眼と言ったら、御釈迦さんの眼はどんな眼だったのか、梅の花なんです。「そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、」書いてあります。梅の花が見えてる事の他に、眼って言うのをどっか求めたら、それこそ「いづれのとこも対面不相識なるべし」出会う事はないとある。眼と梅の花が出会うとですね、ただ、梅の花が咲いている様子だけがそこに出てくる様になってる。それを本当に梅の花に出会ってる時の様子というのですね。その時は眼らしいものは無い。

その眼らしいものが無くて、梅の花の様子だけがある事を、私達の眼の様子と言うのでしょう。「相逢未拈出」本当にそうです。目と物が出会ったに違いないでしょう。だけど眼らしいものは何処にも出て来ないよ。出て来るのは、ただ梅の花が咲いている様子だけがある。「今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。」一々が公のものなんでしょう。

だって、私が梅の花を見てるっていう風な風に、梅の花は見えた事がない。今の梅の花を見てても。私が梅の花を見てるって言う風に、梅の花は見えない。ただ、本当に誰が梅の花に触れても、その通りに見える。それ位無私公平です。争い事が一つもない。そんな穏やかな生活がみんな出来てる。もしそう言う自分の在り様に気づいたら、人は変わるでしょう。そうでなければ、一般に言う様に、自分を立てておいて、そして今の自分を見て、どこかを修正して、もっと素晴しい自分にしていくって言う様な修行しかないんですよね。それは仏道とは違うんです。お釈迦様が本当に自分の真相を、自分の本当の在り様に気づいた内容とは違うんですね、それは。人為的に、人が作っていく在り様でしょ。

何故そう言う事が、その言われるかって、先ほども挙げた様に、人が生まれて暫く、こう生活してる処を見てもですね、振返ってみて、人らしいものが一切ない、分け隔てるものが一切ない。本当にうまくピターっと整ってるのでしょう。仲良く生活が出来てるのでしょう、争わずに。どんな事にも。そうやって大きくなって来たんですね。大きくなって来る間に、何時か知りませんが、これは私、それ以外は他のものって言う風に分け始めて、そしてお菓子を分けてもですね、大きい方をパッと取って、そうしたりですね、一つずつ分けたのを、二つ掠め取ったりして喧嘩する訳です。それは私のだなんて。

そのもちょっと大きな事言えば、世界の混乱もそうでしょ。わが国の範囲のものだって言って、海の上にも線を引き、空にも線を引き、地球の大地の上にも線を引いて境界線を作って、自国の利益の為に、お互いが力を出しあって、争って、それを確保する。まさに私達がすこし大きくなって自分て言うものを認めたのと何ら変わらない事ですよ。それが世界を乱すんですよ。

今こうやって生活してても、毎日の中で問題が起きる時は、必ずそこに自分で一線を引く、引いて相手が言ってる事が気に入るとか入らないとか、言う様なことが自分の上に出て来るから、そう言う処からものの在り方を学ぶって言う事が、それが一般の教えですよ。仏道は違いますね、根源です。元がどうなってるかって、一番最初にどうなってるか、そこを見てます。

こうやって、コン!(机を打つ)必ず一緒になるように出来てるんですね。否応なしに。コン!こうやってやったら、音と一緒になれるようになってる。どう言う風に聞いたら一緒になれるかってって一切使わなくても、音がしたらその通り、必ずそれ以外の聞こえ方がしない様に出来てる。自魔、自分の中に障りになる様なものが起きないんです。そう言うのを本当に体験して伝えて来られたのは、お釈迦様じゃないですか。それでここに、「瞿曇の眼睛」って言う様な事が出て来るんでしょう。仏様の眼。仏様の眼って言うのは、そう言う時の私達の本当の在り様の事を、代表して挙げてるんですよね。

「直に梅花眼睛を開明なるべし、」いいでしょう、直にって。時間も距離も一切ないじゃない。これ修行するのに、最高の修行の仕方でしょう。時間も距離も何もない。いきなりコン!ちゃんとその事が出来る様になってる。どうしたら、そう言う風にうまくいくかって一切そんな事要らない。直って言うのは、間へ何も入らない。直(チョク)って言うのはそう。イキナリと言う意味でしょう。あの、イキナリって言うと、時間がかかるんですね。

しょうがない、その位にしか言い表し様がないから、その位で我慢してる訳です。だけどこうやって、ガー!(大声で、机も打つ)って言った時に、こう言うのイキナリとは言わないでしょう、この事実をみてると。そんなもの一切なしで、ガー!っと言うだけですよ。そう言う消息が、本当は直下承当なんでしょう。イキナリその事がその通りに受け取れる様に出来てる。修行の在り様です。そう言う処を見ると、「梅花眼睛を開明なるべし」はっきりしてるって言う事でしょう。

「さらにもとむるやみね。」とありますが、もうその他に何にもする用ないじゃないですか。それが本当に、梅の花を愛ずる時の在り様なんじゃないですか。ところが人間の梅の花を愛ずるってのは、綺麗に咲いてるねとか、色んなそう言う風な思慮分別を、いっぱい自分の中で起こすから、そう言う事を梅の花を愛ずるって言う風に捉えてるんです。よく考えてみると、それは梅の花を見てるんじゃなくて、皆考え方の上の話であって、実際の梅の花とは全く離れた話でしょう。

自分の中を見て下さい。頭の中で梅の花の事を色々考えてる時に、実際そこに咲いている梅の花の前に居ながらですよ、梅の花を本当に観察するとか、触れるとか、匂いをかぐとか、形がどうなってる、色がどうだとかって言う様な事やってる人はいません。出来ないんです、こっちの頭の中でやってる事があると。それ位事実から離れてるんだけども、その事さえも知らないですね。本当に目の前にある梅の花を相手にしてると思ってるんです、ここで(頭)。違いますよ、全く。この頭の中で取り上げてる話だけですよ。それを止めると、ここにある様に、はっきりするんです。そう言う事が、お釈迦様が歩まれた道でしょう。まあそれが、ちょっとそこにひとくだり、一下りです。そう言う事が大体書いてあるんです、ここに。

後は、道元禅師、漢詩もお好きなもんだから、こうやって色々な方々、歌を詠まれた漢文をですね、取り上げて味わっておられるんでしょう。私達は漢文に不慣れなもんだから、中々漢詩をこうやって出して下さっても、味わいを十分に味わう力が無いと言う事があるかも知れません。

如浄禅師の作られたものでしょう。「先師古仏云、明々歴々、(明々歴々たり)」一点の疑い様がないというんでしょう。梅の花の時に、霊雲の話を出しても、ちょっとずれるかも知れませんが、霊雲の志勤禅師が桃の花の咲いている処で悟りを開いた。桃花をみて。明々歴々なんですよ、明々歴々。どの位明々歴々かったら、すっかり自分を忘れちゃうんですよね。

梅の花を、桃の花の咲いている畑の中に、こうやって佇んでいて、すっかり自分を忘れて、桃の花の様子だけになってしまう位。それまではやっぱり、桃の花は対象物なんですよ、自分と。向こうにある。それを眺めているって言う気配が、人にはあるでしょうね。それが眺めるんじゃなくて、自分らしいものがすっかり消えると、桃の花の様子だけになる。そう言う体験があるもんだから、お悟りを開いたと言う事になるのでしょう。そう言う事が、次の句に反映するんでしょう。

「梅花影裏休相覓(梅花影裏に相覓むること休みね。)」下の方に(脚注)色々書いてありますが、こんな説明、理由は一切要らないんじゃないですか。実際自分の目でやってみればわかるでしょ。「梅花は自己の眼睛である。瞿曇の眼睛であるから、だから梅の花の前にあると梅の花が見える」なんて、そんな屁理屈一切ないんじゃないですか。無いでしょう、そんなもの。

なぜか梅の花の前に行くと、梅の花がその通りあるんじゃん。だけど、どこかしら自分が見てるらしい気配が自分の中に残るって言う事が、もう一つ問題なんでしょう。本当に梅の花が見えてる時、人間て自分らしいものは一切ないと思いますよ。日常茶飯、色んな処で注意深く過ごしてみて下さい。我を忘れてるんですよ。

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり、とありますけど、初めから、自分らしいものはすっかり無しで生活してる。その時の自分の様子に学ぶ、と言う事が説かれてるんですよね。何かした拍子に自分らしいものふっと出て、そして対抗する。それまでは自分らしいもの、殆ど人は、生活の中で見てませんよ。うまく行っている時は正しく、自分らしいものは本当に顔を出さない。初めからそう言う風に、自分らしいもの無い様子が人にはあります。そこの処に参じてほしいんです。そう言う生活をしてる。

「為雨為雲自古今(雨を為し雲為すこと古今よりす、)」まあそれは風景の様子でいいでしょう。「古今寥々有何極 (古今寥々たり何の極まりか有らん)」こうやって生活をしてる、眼と物が触れ合いながら生活してるけど、その様子を見て下さい。雨にもなれば雲にもなる。そしてずーっと、何時始まって何時止まるともなく、この眼と物との関係がずーっと繰り広げられて、もう疲れちゃってみる事が出来ない、嫌だなとかって言う風に、眼はならない。病気をして眼が、白内障とか失明すれば別でしょうが、そうでない限りは眼はですね、こんなに沢山みるのは嫌になったって、今日は止めだって言う様な事はない。

本当に一日中の様子を見たって、此処にある様に「有何極 (何の極まりか有らん)」幾らでも入るんです。幾ら見ても、一杯になって、もうこれ以上は見る事が出来ないって言う様な眼はない。何処に見たものが入るかわからない。でもいつでも、イキナリきちっと生活が出来る。用意をしてなくたって、其処行ったら、その通りの事がすぐ出来る。準備していなければ、物がちゃんと見えないって言う様な事は眼にはない。もしそんな眼だったら役に立たない。

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