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This blog presents Kando Inoue roshi's activities, mainly his dharma talks of shobogenzo in English. Kando is the top advocate of shobogenzo by Zen Master Dogen.

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あとがき
 梅花の巻は、平成249月から252月にかけて、岡山県倉敷市玉島の円通寺講話会にてご提唱されました。 

梅花には、道元禅師の師、如浄禅師の偈が多く出ています。 梅花の言葉通り、美しい巻です。「老梅樹」の偈を皮切りに、如浄禅師の梅花の詩偈八編、 法演禅師の梅花の偈一編、太原浮上座の悟道の偈一編が収められています。

この梅花の巻で道元禅師は何を私達に伝えているのかについて、貫道老師はご提唱の随所で述べられています。「一般の人は、良い詩だ、上手く表現してるな、位にしか思わない。如浄禅師の真意を理解しているのは、道元禅師只一人ですね。さすが如浄禅師の法を嗣がれた方です。」
 「
如浄禅師は漢詩を読んで、日常の一々が詩材として、何もかも自分自身の材料として、仏道の真意をしめしている。道元禅師は如浄禅師の真意を読み取り、梅花を教材に違った展開をされている。如浄禅師道元禅師は、自分自身のものの上でつかって、実証して来られた。」と話されています。
 その仏道の真意として示される内容について、「事実に参ずると、自己を忘ずるとか自己を離れるとか出て来ますが、事実に参ずると自分の考えるような事なんか皆どっかにいってしまう。はじめから自分らしいものはすっかり無しに生活する、その時の様子に学ぶ、と言う事が説かれている。道元禅師も如浄禅師もそれを実証して生きられた。」その様子が、詩偈で梅花の姿を借りて表現されています。

貫道老師は、別の処でこの自分らしいものの無い活動の様子を、「道、悟りの内容ですね。」と述べられています。道元禅師が梅花の巻では悟りの上にある人の在り様が説かれていて、それを実証して生きられた道元禅師は、正法眼蔵として私たちに残されました。また同じ様に、この梅花の巻の真髄を私達の説くことが出来る貫道老師もその事を実証され私たちに伝えていると思います。

老梅樹の処で、「命は断ち切られたらなくなる。人間の命も教えも教育も生きている私達がつなげて行かなければならない。」と話されて、若くして亡くなられたお弟子さんのお話をされている。「この修業をしていて良かった」と、最後まで自分が死ぬ様な気がしないと、生き生きとして青年のお話は、涙せずには読めないほどです。時間、善し悪し、幸不幸を超えた命の在り様が展開されています。

 貫道老師の語句解釈の正確さは比類無きものがあります。道元禅師の真意を読み取る事ができる、日本でも滅多に出会う事が出来ない老師のご提唱は、是非とも形にし残させて頂きたいと思いました。

 生涯をとおして、全国各地で正法眼蔵をご提唱される老師の伝法が、より多くの皆様に届くことを願って、この本を作らせて頂きます。
 
書き起こし作業を始めた当初から、原稿点検の労をお取り下さり、ご指導を下さっている井上貫道老師に、深く感謝申上げます。           二〇二〇年八月             龍田 しづか 記
                       

著者略歴

井上貫道(いのうえ かんどう)老師 略歴 

1944年、静岡県浜松市生まれ。井上義衍・芳恵の五男。1953年に得度。曹洞宗準師家、少林寺東堂。発心寺専門僧堂を皮切りに大本山総持寺特別専門僧堂送行後、袋井市可睡斎役寮として長年務める。少林寺24世中興開山。10代で自覚し研鑚を続け、後に義衍老師より印可証明を受ける。東京、静岡、関西、岡山など各地の坐禅会に指導に回っている。

 

参禅会情報サイト

坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵まとめサイトhttp://zazen.blog.jp/
ブログ 正法眼蔵を学ぶ   http://syobogenzo.blog.fc2.com/

井上貫道老師神戸坐禅会  https://www.rakunomori.com/zazenkai/kandouroushi/

井上貫道オンライン禅会   https://kochizazenkai.jimdofree.com/ 
Shobogenzokando
blog    http://syobogenzokando.livedoor.blog/

 

著書

〇 『少林寺史』

〇『げんにーび』現成公案提唱録(定価1,000)(通信販売:本代と送料込1,400円を現金封筒にて少林寺まで)

〇 真実、悟り、禅修行とは(1)道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録』(井上貫道提唱、2016年)アマゾンにて購入可能

〇正法眼蔵 三十七品菩提分法提唱録 ISBN アマゾンにて購入可能

 

e-book
以下amazon にて購入可能

〇正法眼蔵梅花提唱録」

〇自証三昧

〇大修行

〇三十七品菩提分法提唱録 第一部
〇三十七品菩提分法提唱録  第二部

〇三十七品菩提分法提唱録  第三部
Dogen’s Essays

Shobogenzo The Four Abodes of Mindfulness  Advocated by Kando Inoue




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梅花 Ⅲ_02_01
梅花 Ⅲ_02_02
梅花 Ⅲ_02_03
梅花 Ⅲ_02_04
梅花 Ⅲ_02_05

「『五葉』を参究しきたれば、」ここでは脚注をみると、万法て言って五葉を五つに限らず、あらゆるものと言う風にとらえておられる。それで良いと思いますが、それはね。一身と万法が別のものでないからって。そう冬の雪の降ってる中で咲いてる梅があれば、その梅を、梅が咲いてるなって言う風にして、見たり感じたりするって事は、ここでは正しく達磨、お釈迦様の眼の様子だって言う風に一応してるんでしょう。向こうにある梅の花の話ではない、梅の花の話ではなくて、自分自身の眼に映ってる様子を問題にしてると言う事でしょうね。

「雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。」不思議ですね。そこに梅の花の咲いてる所でこうやって、こうやってやると、その通りも事がその通り自分の上に、何時伝わったかも知らないけど、その通り、きちっと、きちっとその通りの事がある。正しく正伝ですね。正しく伝わる。正しく受け取る。受け継いで、附嘱、そしてそこに出合う。親しく合いまみえる。皆さんが毎日やってる事ですよ。本当にそう言う風になってますね。私が此処で喋ると聞くって言う前にその通りの事が聞こえてるからね。そう言う事も知ってほしいですね。

「只一枝の語脈裏に転身転心」身を転じ心を転じ、活き活きとした活動があるって言う事ですね。「転身転心しきたるに、」 これは、「雲月是同なり、渓山各別なり。」と言う様な事が、句が引いてあります。一方から言えば平等の世界、一方から言えばものの違いがきちっとしてる世界です。

もっと端的に言えば、空を見上げて御覧なさい。雲も月もこうやってそこにあれば、雲と月は違うんだけど、別々に見るって事はない。こうやったらいきなり雲と月が一緒に見える。全く違うものなのに。そう言う事ですね。これだけの人が此処に居る。皆違うけど、こうやってこうやってやると全部その通り、違うのに同じく見える。そう言う事が一方である。一方では確かにこの世に一人一人別なんですよね。絶対同じじゃあないんだ。それを平等即差別、差別即平等とって言う風にして、私達は使ってます。どっちか一方だけではないですね。

人間て言う名称でやれば、こうやって、人間って言う風に同一視する事が出来るのでしょう。だけど、その中に男性女性って言う違いが、こうあるから、男性女性って言う。人間としては同一なんだけども、男性女性別なんですね。年齢も別だろうし、背丈も別だろうし、そう言う違いがある。両方知って使わないと、問題が起きる事がある。偏るって言うんでしょうね。同じって言う見方の方だけを強くすると偏る。

例えば、お薬を出す時に、大人は一回にこれを三粒飲んで下さい。病院で大人の人子供の人って分けて、くれる。で時々おかしくなる人がいる。何でかなと思うと、大人だけども、子供よりも小さい人一杯いるのね。あれは効き過ぎちゃうね、完全に。で子供に、子供だからって言って、一服飲ましても中々効かない。これは1m60cm位で50kg位ある子供だったら、そりゃ子供じゃないんだよね。あれは多分年齢だけで、大人と子供分けてるんですね。

だけどお薬なんかを投与する時には、年齢だけで分けたんじゃ、恐らく危ない。それでちゃんと本人を見届けて、お薬をちゃんと配布して出すって言うのが、人間社会の在り様なんだけども、今は人そのものを見ない事が多いからね。そこまでちゃんとデーター見ないんじゃないですか。データーにしても、名前見て年齢見た位で、体重とか身長とかそこら辺まで詳しく見て、薬剤師がお薬を調合するって言う様な事は、よっぽどの選れた所でないとやりませんね。

こう言うのは、こう言う事の歪なんでしょう。どっちかに偏っている。ちゃんと使えば正しい答えが出てきます。こう言うのも勉強の必要な事でしょう。人間は皆平等だって言う。確かにそうであってほしい。じゃ平等だからって言って、皆夕食はドンブリに一杯ご飯食べろって言われて、もう結構ですって言う人います。お腹一杯で。いや平等だからって、そう言う、間違うとそう言う風な事になるでしょうね。平等って言う中には必ず違いがある。違いも見なければならない。違いを勘案して、初めて平等なんです。正しい。そう思いませんか。

八時間労働。身体の大きな人も小さな人も同じ様に働かなきゃならんて言って、重い物を持たされたり、色々あります。どっかに基準があって、そう言う見方のため偏りがあるのでしょう。まあそう言う処、一つ見て欲しいのね。で、まあ次は先程上げた様に、間違ったものの見方をしてるって言う事が上げてありますね。こう言うのは取るに足りないって言っているのですね。

「『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。」まあ、言う事は無いでしょうが。達磨さんがインドから中国に来られて禅が広がるその過程において話、じゃその前は禅は無いのか、真実は伝わってないのか、と言う様な事が道元禅師が指摘されている事でしょう。或いは六祖以降の道元禅師ご自身の様子の上にそう言う事が無いのか。もしそう言う事が伝わってないんだったら、正しくものが伝わるとは言われないんじゃないか、と。ある一時期だけそう言う事が行われている言う様な事だったら、ものが正しく伝わっていると言う事言えないんじゃないかって言う様な事でしょう。だからこう言う人達の意見て言うものは取るに足りない。子供の話よりもつまらんて言ってる。道元禅師は、子供の話がどの位素晴らしいかって言う事を知ってる。子供の話中々凄いですよ。「諸悪莫作」の巻見て下さい。

でもこれが大の大人のやってる事。もっと現代風に言ったら、研究の第一線でやってる人達がこう言う事を禅宗史とか仏教史とか言う中で唱えている。私達にあたかもそれが正しい様に教えている。よそにも道元禅師の厳しい批判があったと思いますが、五家と言われる五つの派がある。本当は派があるんじゃなくて、皆伝えるものは同じなんですね。それを別なものだって言う風に位置づけたでしょう。

曹洞宗って言うと、何処が臨済宗と違うんだって必ず言う人が居るもんだから、曹洞宗と臨済宗の違いを一生懸命述べるわけだけども、もし曹洞宗と臨済宗が違うんだったら、正伝の仏法はどうなる。正しく伝わったら分かれる訳がないです。二つも三つも。五家と言い、例え五家と言っても此処にある様に只一枝なんです。伝えているものは只一枝なんです。梅の枝だって一本しか枝が伸びない訳じゃない。一本の幹に何本も枝が出る様に、だけど、それは只一枝です。只一つの株の枝です。別々のものでは絶対ありません。そう言う事を、私達はきちっと知っておく必要があると言う事を言っておられるのですね。まあその辺で、そこら良いでしょうかね。

「先師古仏、歳旦の上堂に曰、『元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅花早春(元正祚を啓き、万物咸く新たなり。伏惟んれば大衆、梅、早春に開く)』。」って言うご垂示があった。お言葉が述べられた。お正月のご挨拶ですかね。「しづかにおもひみれば、過現当来の老古錘、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ『梅花早春』の道あらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。」

過去現在未来の老古錘って言うのは、立派な人ですね。必ずしも、年齢が高いと言う意味だけじゃありません。年齢が高いって言うんだったら、道元禅師老古錘に入りません。僅か五十四歳で亡くなっておられ、中国から帰ってきた頃には、まだ三十代にならないでしょう。今で言う、若輩ものでしょう。当時十六歳で元服ですから、立派な大人ですがね。そう言う事を考えてみると分かりますけど、老古錘って言うのは、年齢も高くとありますけれども、年齢が一番中心ではありません。力量のある人です。力量のある人って言う事は、眼がしっかり開けた人です。

そう言う方が、例え「尽十方に脱体となりとも、」飛びぬけて素晴らしく、だけどもまだ「梅花早春の開く道あらずんば、だれかなんぢを道尽箇といはん。」道の字はよく使う様に、言うと言う風に読むんでしょうね。道(みち)と読むと意味が通じない。言い尽くすと言う表現をしております。

じゃ具体的にみたらどう言う事かと言ったら、梅が春、花が咲いた。その梅の花が開いた時に、出合った時に、本当に梅の花が開いた通りに、もしならなかったら。そんな人は一人もいません。老古錘でなくても、誰でも梅の花が開いた時に触れたら、必ず梅の花の開いた様にならざるを得ないんです。それだから、ああ咲いてるって言う風になるんです。もし梅が開いた時に、そこへ出会った時に、その通りに見えなかったら、梅が咲いてるって言う様な事にはならないですね。

だから、そう言う本当に身近な些細な僅かな処に、天童如浄禅師と言うお方は眼をちゃーんとつけておられる。他に仏道って言う様な事がどっかに特殊にあるんじゃないって言う事です。皆さんが本当日常使っているその物自体に仏道の本当の真意があるでしょう。だけどお互いそうでしょうけども、眼を持って物に向かうとその通り見えるって言うのは、仏道の様子だとは思わないじゃないですか。眼の働きとしては理解できるけど、それが仏道の、しかもお釈迦様がお悟りを開いた真意だなんていう風には誰も受け取ってませんよ。

赤い物に触れたら赤く見えるのは当たり前じゃないかって、それで終わりです。白い物に向かったら、白いのは当り前だ、それが何だって言う位で終わってるんじゃないですか。それをきちっと見届けてるって言うのは、正に天童如浄禅師以外に居ないなって、道元禅師は評価してる訳です。如何ですか。それで完璧なんでしょう。赤いものが赤く見えて、白いものが白く見える。その赤いものが赤く見えるのに、赤く見えるって言うんだけども、何もする事無いんですよ。

無為にして、殊更に何か赤い物に向かって赤く見なきゃならないとか、何も殊更に自分でしないのに、いきなり赤い物に向かうとその通り赤く見える様に出来てる。それここで言う嗣所梅花ですね。正しく伝わると言う事でしょう。正伝。そこには迷いらしいものが一つも無い。惑わされる、迷惑と言う様なものも一つも無い。だからそのままで安心した生活出来てるんじゃないですか。そう言うものを証明します。それで証明されてるんじゃないですか。

だけどもそこまで赤い物に触れた時、赤く見えるって言うんだけど、そこまで心底納得が行く人って少ないですね。それ位私達は特別な処に仏法を求めてる。もっと違うものだと思ってる最初から。それ考え方の上で仏法を求めるからです。教えられた色々な知識の上で説かれている物があるから、そう言う認識を沢山持って、それで仏道と言うものを学ぼうとするから。道元禅師の様に正統な方々は、だから最初から人間の考え方の上の話を修行する時に持って来ないじゃないですか。考えじゃなくて、そこに今展開している、而今の事実、今の事実、それに参ずるって事を、徹底皆さんに基本として教えておられる。

「その宗旨は」その一番中心の内容ですね。ムイって読むんですね。梅の事をそんな発言する。ムイカイ、梅開、「梅開に帯せられて万春はやし。」梅が開く時を春と言うのでしょう。そう言った方が早い。それで十分でしょう。

日本には四季があって、衣替えなんて言うのが、何時の間にか定着していますが、今年の様に秋が来て冬が、立冬になってからも、中々涼しくならなくなった。特に秋の頃なんかはまだ暑かった。夏の着物きてても良いでしょうかって言う人がいた。エー何で秋が、立秋暦の上で着たら、秋の衣に着替えなくちゃならないか。元々は涼しくなったのを秋と言うんだね。その基本が違うんだよね。ほんとに。

そう言う事を考えないから、これだけ長い地球の歴史の中でも、どんどん、どんどん時期が変化して来てるでしょう。もう二、三ヶ月多分昔の暦と違って来てるんじゃないですかね。事実に学ぶって事じゃないですか、本当は。そしたら暑かったら、夏の着物着て別に良いじゃないですか。夏の着物とは本当は言わないんだよね。

まあそう言うな事、「万春は梅裏の一両の功徳なり。」いやー本当に春が来ると梅が一斉に咲くのでしょう。それで、ああ梅が咲いた、春になったなあと言う風にして、皆居るんじゃないですか。屁理屈を言う人は違うんですよ。屁理屈を言う人は違いますよ。人間が作った暦と言う上から物を眺めて、どうこう言うからずれるんじゃないですか。今の事実からこうやってやったら、ずれないんじゃないですか。

「一春なほよく『万物』を『咸新』ならしむ、」梅の花が一輪咲いただけで、全ての物が変わると言っていいんでしょう。そりゃ此処では梅の花って言う風にして、皆さん方が対象物として梅の花を想像してるかも知れませんが、皆さんの一々の様子ですよ。ちょっと左を向いただけで、悉く新たになりますよ。ちょっと右向いただけで、全部変わりますよ。一枚めくっただけで、全部変わりますよ。

その本の一頁をめくられただけじゃなくて、本の一頁をこうやってめくったら、全てがこれで変わりますよ。そう言う事をもうお分かりでしょう。どうですか。えーただそりゃ本の一頁めくっただけじゃない、他、何処変わった?って言う人が居るかも知れませんが、よく見て下さい。自分が立ち上がったら、一変に世界が変わりますよ。自分だけじゃなくて全てのものが。本当にそう言う風に出来てるんですね。

「万法を『元正』ならしむ。」正って、元旦正月でしょう。年が改まると言う事でしょう。だけど年が改まる処に正月、正しい月とか正しいと言う事を上げられたり、元旦の元、元と言う風な事が使われてます。それ元って元正となります。本当に、そう言う風に全てものが正しくきちっと行われてるね。違った動きは一つも出て来ないんですよね。コン!(机を打つ)こうやってやると、その通りの動きがそこで全部、それによってコロッと今までのが全部改まる様に出来てる。

同じ眼でこうやって物を見てるんだけども、その眼の様子が全部こうやって、襖に触れた時、壁に触れた時、皆それによって一変に変わるんだからね。根こそぎ変わる。そして何時もだた一心、その今触れてる様子しか出て来ない。だから見ておっても、あれとこれがどう言う風になってるって言う風な頭で、とやかくやる事一切要りませんね。眼に参じたら必ず、その今こうやって触れてる様子しか出て来ない。それがどんなに微妙な複雑そうに見える物であってもそうです。そう言う様にうまく出来てますよ。

「『啓祚』は眼睛正なり。」眼睛は眼でしょう。啓祚はここでは神から授かった幸せとか幸いとかって言う風に訳しておられるでしょ。神とか言う言葉で騙されない様に、そのもの、そのものから戴くんですね。その物がその通り、赤い薔薇だったら赤い薔薇が、赤い薔薇その通りに、私達の眼にちゃんと赤く見える様に出てきます。何のそこには屁理屈もありません。どうしてそうなる、何故そうなるって言う様な事が一切入らないですね。そう言うのを神の仕業と言うのかも知れませんね。神の為せる業と言うのかも知れません。

神と言う字と中心の心と言うものは同一ですね。意味として。中心、ものの中心、必ず物には中心がある。だけど中心て言うのは、本当に抽象的な言葉であって、ここは中心だって言って何かそこに具体的な見える様な物がある訳じゃない。こうやって吊るすと、必ず真直ぐになる処が出てきますね。この辺でやると平らに見えるかも知れません。ちょっとこっちの方でやると平らには成らなくなるとか、そう言う風に中心て言う物が必ずあるんですね。中心線て言うのは、何処に何処に置いてもだけど、出てきますね。タコを作る時、そうやって二つ位こうやってやると、二本出てきた線のここら辺に紐をつけて、こうやってやると大体上がる。

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梅花 Ⅰ正_01_01
梅花 Ⅰ正_01_02
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梅花 Ⅰ正_01_04
梅花 Ⅰ正_01_05
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八月一回間を置いたので、久しぶりと言う事になるのでしょう。仏祖の巻は終わったのでしょう。読み終わって梅花の巻きに入るのですかね。166ページ、一下り読みます。

「梅花 先師天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。

上堂示衆云、『天童仲冬第一句、槎々牙々老梅樹。忽開花一花両花、三四五無数花。清不可誇、香不可誇。散作春容吹草木、衲僧箇々頂門禿。驀箚変怪狂風暴雨、乃至交袞大地雪漫々。老梅樹、太無端、寒凍摩沙鼻孔酸』
(上堂の示衆に云く、『天童仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。忽ちに開花す一花両花、三四五無数花。清誇るべからず、香誇るべからず。散じては春の容と作りて草木を吹く、衲僧箇々頂門禿なり。驀劄に変怪する狂風暴雨あり、乃至大地に交袞てる雪漫々たり。老梅樹、太だ無端なり、寒凍摩沙として鼻孔酸し』)
いま開演ある『老梅樹』、それ『太無端』なり、『忽開花』す、自結菓す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは『狂風』をなし、あるいは『暴雨』をなす。あるいは『衲僧』の『頂門』なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは『草木』となれり、あるいは『清』『香』となれり。「驀劄」なる神変神怪きはむべからず。

乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。老梅樹の、『忽開花』のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の『不可誇』なり。優曇華・優鉢羅花等、おなじく老梅花樹花の一枝両枝なり。おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。

人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と称ず。万億花は仏祖花なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり。祖師本来茲土を喚作するなり。」


まあその辺まで読んで。梅花の巻の中では、道元禅師が特にお師匠について親しく参禅をされた、と言う様な事の内容が沢山出てきます。

で冒頭に今読んだ如浄禅師の一句がある訳ですが。もう十分皆さん、ご承知の事だろうと思うけども、仏道とかこう言う風な祖師方の伝えられている内容って言うのは、基本的に誰か他人の事を学ぶのではないって言う事ですね。これはもう多分百も承知であろうと思います。いかがですか。基本的にそこがはっきりしていないと、大変な事になりますね。

仏道とか禅とか言う風に言われているものが、そう言う教えって言うことの内容ってどう言う事か、他人の事を何か学ぶのではない。皆、自分自身の様子を学ぶんですね。自分自身に今備わっている内容を私達は知らないから、それをよーく学ぶ事です。仏道と言うのは、はじめっから自分の様子以外の何者でもない。それは絶対間違いのない事なんでしょうね。それを、そう言う事をよく分かった上で勉強してほしい。

そうでないと、自分と言うものをなおざりにして、他所に何かそう言う素晴しいものがあるんじゃないって言う風にして、書いたものを読んで頭で理解して、ああそうなれたらいいなとか、何時そう言う風に成れるんだろうかって、それ何処へ行ったらそう言うものが得られるだろうかって、言う様なウロウロした事が、生涯ただ頭の中で巡っているだけ、堂々巡り。ひとつも実質に触れる事がない。多くの場合、時間がかかるってのは先ずそれでしょう。

自分自身に目を向けて、自分自身の中にある様子を本当に学ぶって言う事だって言う事を、多くの方は伝え聞いてないんですね、不思議に。だから皆さん方がもし、色々な縁があって、色んな人のお話を聞いてごらんになるとよくわかる。そう言う事をきちっと伝えてくれた第一人者として、道元禅師は自分のお師匠さんを、こうやって挙げておられます。

「天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり」自分のお師匠さんを最高の敬意を持って、表しておられますね。本物なんだ、この人は。そう言う人に自分もついて、その事をきちっと明らめた、はっきりさせた、という事ですね。そう言う上で、このある日の天童如浄禅師が示された詩偈と言うのでしょうね。漢詩、まあそう言う事でいいでしょう。

この中に老梅樹と言うのが出て来ます。老梅樹と言うのは表面的に言えば、年月を重ねた梅の木ですよね。若木と違ってですね、年月のけみされた、梅の古木と言いますかね。そう言うものですよね。それはですね、見出がありますね。梅林に行ってもですよ、若木では中々味がない。

百年、二百年経っている梅の木が植えてあると、花が咲いてなくても、その梅の枝ぶりを見ただけで結構楽しめると言う様な事があります。お釈迦様からすれば、二千年に近い老梅樹ですからね。しかもその梅の一本の木がですよ、枯れずに、二千年の年月をけみしてる。それが仏道なんですよね。

命と言う表現がありますが、命って言うものは切れたら、断ち切れたら、断ち切られたら命はなくなります。続いているからこそ、命なんですね、全て。全てのもの見てもらえば分かります。盆栽なんかでもそうですけども、250年もたってる松だとかって、宮中の中にはそう言う物が何鉢も蓄えられていますけど、この暑い夏一日位、多分水をやらなければ簡単に枯れる。枯れるとですね、幾ら水やってもですね、もう無理ですね、枯れたら。まだ命がある間だったら、水をやると復帰できるけど、本当に命がそこで絶えたらですね、二度と復活しない。

人の命もそうです。死んだ人が生き返って来たって言う例はありません。殆ど死んだ様に見えた人が生き返って来る事はあります。まあ珍しい例でしょう。でも本当に死んだらですね、生き返らないのですね。だから私達も命というものつなげていかなきゃならない。それは人間の命もそうでしょう。それから教えの命もそうしょう。培った教育あるいは技術、あらゆるものがあります。そういうものを後代に伝えていく、それはまさしく生きてる人の務めです。死んだ人は出来ません。そう言う大事な使命お互い持ってます。

そこで、一言で如浄禅師の梅の木話をしてますが、まあこの老梅樹と言われている事自体が、自分自身の事を表していると言う風に理解して頂いたらいいんじゃないですか。どれ位年月を経ている梅ノ木か。遡って、遡って、遡って行って御覧なさい。どこまでいったら、私達の先祖の処に行くの?おおよそ何万年とかって言うのでしょう、人類の発生まで行くと。だけどその人類の発生の前に、まだ人類が進化してくる過程もある。そこをずーっと行くと凄い年月なんだろうね。そう言う風なしっかりと根を張った一人一人です。


それが無いと、今日の私達は、今の私達はこの世に生を受ける事が出来ないんですね。ありとあらゆるものが全部自分の命にかかわっている、と言っていいでしょう。そう言う老梅樹です。陰暦の11月。太陽暦だと何月になるの?もうちょっと遅くなるですかね。歳が明けてから。

「仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。」下に脚注があります。梅の木を見るとわかりますが、枝が出てますね。ああいう様子でしょう。此処では斜めに切るって、芽はありますが、牙は勿論芽です。枝です。まあそう言う枝ぶりの様子です。

そこにですね、忽ち花が開くとある。一花、ひとつの花、二つの花、三つ四つ五つ、無数に花が開くって言う風に示されてます。私達この身体ひとつこの世に生を受けて出て来るとですよ、その周りにあるものと、本当に周りにある物と一緒に、次から次へ無数に活動する様に出来てますね、この身体が。そうやって仏道の勉強をする。

私の所も鈴虫が、籠の中に入っていい声で鳴いてますが、リーンリリーンって言うとですね、この身体の様子として、その様に虫が鳴いた通りに、この身体の様子が、花が開く様に、そう言う事がこの上に現れますね。皆さんどの様に受け取るか知りませんが、虫が鳴いてるって言う事は、このものの様子ですよね。このものの今の生き生きとした活動の様子でしょう。向こうの方で虫が鳴いてるって言うのではなくて。取りも直さず、その事が自分自身の様子じゃないでしょうか。

こう言う事が話しをした時に難しく思えるんでしょう、一般的に。何を言ってるんだろうとか。だって俗っぽい話をすれば、皆さんの持ってる耳の働きが虫の音をあらしめるんでしょう。皆さんの持ってる目が物をあらしめるのでしょう。他のものでやってるのじゃないでしょ。この身体で全てのものが、そう言う風に、この身体によって聞く事が出来たり、見る事が出来たり、味わう事が出来たり、触る事が出来たり、感じる事が出来たり、思うことが出来るのでしょう。本当にただこの一身ですよね、身体一つ。その上に無数の数えきれない現象があるんじゃないですか。花として、開く。

ここ二、三日、私の寺にも一緒に勉強してる若い子が、東京から帰ってきて報告をしてくれた。前にも話したかも知れませんが、二月の頃に診察をうけたら、肺の癌である事が発覚して、精密に調べて貰ったら、脊髄にも転移してるし、リンパにも入ってると言う事で、一年かね、長くて三年て医者に言われたと言う子がですね、この前22,23日に行って診て貰って来た、その報告が。若い方なんだからやっぱり凄い勢いで進んでいるんでしょうね。

ご本人の口から話があったけど、そのフィルムをこうやって見せられて、話をされたのでしょうけれど、その時に説明を受けて、やっぱり愕然としたって言ってました。両方の肺が真っ白になって、骨盤も真っ白だって。それから脳にも何か一箇所位、何かあるって言う。で余命三ヶ月と言われて帰って来た。昨日から入院の手続きをして東京に行ってます。

まあ抗がん剤を、今良いって事で、抗がん剤をやる事になって、抗がん剤を受けてどうなるのかって言ったら、一応延命二ヶ月。だから二ヶ月くらいは延びると言う事で、本人はそれを聞いて、三ヶ月で終わる命があと二ヶ月、倍近く延びるんだったら、是非やりたいって言って行きましたけど。まあ身近にそう言う色んな事が起きてる。

そうこうしてる内、一昨日、30歳位になった娘さんが、娘さんて言うか女性の方がひょっこり尋ねて来て、30年位前に私の寺におじいちゃんと一緒に来た事があるって言ってました。何故か足が向いたから、こっち来た。どうしたの?って聞いたら、33才の、自分にとって、とっても大事な人が、七ヶ月で亡くなった。やっぱり癌ですかね。亡くなった。一ヶ月半病院に付き添って最後を看取ったって言ってました。その後、その為に仕事をやめたのですかね。それでその後まだグズグズしてる、と言って、私の所に来て、4時間位話をして帰った。何か元気が出たからって帰っていきました。

まあ身近にそういう命に関してですね、切実なものが私の周りに沢山あろので、色々感じるんです、私もね。でも有難い事に、その男性も医者が吃驚しているのはですね、こんなに酷いのに先ず痛まないって不思議だって。普通だったらとってもね、起きていられる状態じゃないです、歩けない。だから人って不思議ですよね。まあ他の民間療養もしてるんですけどね。そう言う事が多少効果があるのかもしれない。もうひとつは精神的な介護ですね。これはもう本当にこの仏道を修行してるって言う事で、本人は力になってますね。

彼の言を借りるとですね、「何時も言われてるけれども、本当に和尚さんが言ってる通りだって」命がそうやって切実に短くなる毎日を、こう通してですね、より一層その事は確信を持って、確かに、本当にそうなってるなって言ってました。それで、こうやって生きる自分の様子を、こうやって触れてるとですね、どこも死ぬる気配が何もないって言ってます。生き生きしてる。いちいち。こんなに素晴しい毎日生きてる姿が自分にある。それを楽しんでます。

普通の人は、多分そうやって色んな事を言われたら、こっから上でですね、(頭)此処で色んな事考え始めるんでしょうね。殆どそうです。かれは違うんですね。本当に自分の今の様子に、自分自身の在り様に目を向けている。それがどういう風に本当になっているか。それだけに学んでます。それはね、生きていく力になるんですね。精神衛生上まことに、素晴しい。学んで良かったって言ってますよ、だから。もしそ言う事を勉強してなかったら、学んでなかったら、私も気がおかしくなったかもしれない、まあそう言う。この勉強はだから素晴しいですよ。

事実、本当に今どうなってるかって言う事を、自分自身の身心上で学ぶんです。ここの(頭)じゃないです。ここで考えてることじゃない。考えの上で取り上げてる事じゃなくて、本当に自分自身の生き様としての様子、その事実に学ぶんですね。そうすると、何時どの様な事があっても、恐れる事はないでしょう。

当然いつも申し上げる様に、人は生まれた時に、もう死ぬるって事は太鼓判を押されたんですよね。その上で、日々生きてるんですからね。ところが忘れちゃうんですよね。死ぬるって言う事、太鼓判を押された事を忘れちゃって、ある日宣言されるとオタオタする。あんなの問題外でしょう、初めっから。オタオタすることじゃないでしょう。これお互い誰でもそうですよ。そういう上で生きてるんですよ。

それで死ぬる、死ぬるってよく言うけども、このものを見てみると、生きてる間は死なないんです。エー生きてる間は微塵も死ぬると言う事はない。この身心の上において。考えの上においてはあるんですよ。で、考えの上で取り扱い始めると、人はまあ苦しみ、悩みを起こすものでしょう。

そこでですね、この身体の上の色んな活動が、そこに挙げられている様に、無数の花が開く様に、毎日無限の楽しみがある。無限の喜びがある。計り知れない素晴しさがある。そういう生き様なんですよ。そんなに凄いんだけども、花として挙げれば、よく研を競うって言う言葉使いますけども、花はですね、俺の方が美しいって言ってそんな事を争った事ないですよ。

ここにある様に、「清誇るべからず、香誇るべからず。」清らかな様子も香りの様子も花の素晴しさもですね、何にも普通なんです。ただその通りの事がその通りにあるだけで、何にもひけらかすものも無い。威張るものもない。だのに清らかな香りもすれば、ねぇ、花が咲いて、その花に触れるとみんな、皆さんが感化される。

「散じては」散りてはと言うのですかね。「春の容と作りて草木を吹く、」花びらが風に散って、ザーっとこうやって風が吹いて、そこには樹木がある中に、梅の木が花をつけてますから、風が吹いて来ると、時期になると花びらがバーっと散って行くって言う見事な様子ですね。

「衲僧箇々頂門禿なり。」これはお坊さんで、天童如浄禅師の姿を、自分自身の事を言ってるんですかね。衲僧、私自身、ここ頭を見ると、こうやって髪の毛をそってつるつるって、まあ禿げと読むんでしょう。禿と言う字ですから。みんな毛が無い、頭の。それはそれで良いでしょう。

「驀劄に変怪する狂風暴雨あり、」春一番とかって言うんでしょうねぇ。強風、春の様子。凄い雨風が降るのを春一番とかって言うでしょう。ああいうものがあるでしょう。たちまちまっしぐらにとなるんですか、そう言う事が起き急変する。否応なしそうなるでしょう。皆さんだって、この8,9月台風がここら辺も来たと思うんだけども、雨風がひどくなると、そう言う中で生活してると、その通り自分の生活の様子が。それとは別にって言う人はいませんね。必ずそのものと一緒にずっと生活する様になっている。

「乃至大地に交袞てる雪漫々たり。」中国、この辺の時期には寒いから雪が山の方では積もるのでしょう。そう言う雪の積もってる中に、こう風景としては古木の梅があって、それが花をつける。先ほども触れたように、老梅樹って言うのは自分自身の事を梅の木に例えていると言う風にとって頂いたらいいのでしょう。

「老梅樹、太だ無端なり、」どういう事を言うかって言うと、お互いそうですが、自分の様子と言うのは、どこからどこまでがこうやって今、今でもそう、どこからどこまでが自分の様子かって言って尋ねてみても、此処から此処までが、自分の様子だって言う様な、なんですかねぇ、端ですね、端、際がない。

そうでしょ。眼ひとつだって、こうやって見てるんだけど、何処まで自分の見てる様子だって言って、何処までも自分の見てる様子で、ここからは他人の様子だなんて言う事、一切こうやって見て、無い。それ位、途轍もないものですね、このものは。

生涯、いつもこれも申し上げるけど、生涯この自分の頂いてる眼で、物は見るばかり。それ、如何いう事か分りますか。生涯自分の眼で見てるだけって言う事は、どういう内容なのか。他人に騙される事は一切ないって言う事ですよ。それ位、絶妙な素晴しい生き様をしてるって言う事ですよ、最初から。誰に聞かなくても、間違いなく、はっきりしてるんです、いちいち。

更に詳しく自分の眼に参じてみると、色んな事がよくわかる。眼って言うのは本当に色んな物を見るけど、無数花とある。次から次へ色んな物をみるけど、もうこれで、これ以上見る事は出来ないって言う様な、そう言うものじゃないですよね。で、幾ら出て来ても何ともなく、全部それをそのまま頂いて、どこへ入れたかも判らない。確かにこんなにはっきり一々見えてるんだけど、その時限りですよ。後にも先にもその様子は何処にもない。捨てた気配もないし、取り除いた気配もないし、入れ換えた気配も、何にもない内に、コロッとかわるんですね。

こんな働きって他にはないですよ。だから何時でもきちっとその物が見えるじゃないですか。ぶれた試しが一つもない。しかも争う事が一つもない。前に見た物と今見てる物が、並列で其処に見えるなんて事は絶対ないですね、眼って。ただ本当に今見えてる様子だけです。それで足りるのでしょう、生活するのに。足りないんだったら困るけど。何時いかなる時でも、今見えてる様子だけで足りるんでしょう。

底抜けそんなに素晴しい皆さん方はものなんですよ。一々、自分に学んで下さい。自分自身に目を向けて、自分の本当の在り様に学んで見て下さい。どうなってるか。そうすると、仏道に、あるいは釈迦が残してる言葉に書かれている通りの事が、自分の上に、今ちゃんと実現されてるじゃないですか。その事がものを学ぶと言う事なんです。他所から何か貰ってくるんじゃない。自分自身の上に言われている通りの事が、本当に成程って自分で合点が行く様に出来てる。

だから出来るとか出来ないとか言う様なけちな話では初めっからない。ちゃんとその通り実現されてる自分なんだけども、自分に目を向けて見た事がないから、自分の素晴しい出来栄えを知らないだけです。もったいないじゃないですか。そんなに素晴しい出来栄えで、愚痴る用の無い様に出来てる。知らないから愚痴るんでしょう。すぐ不平を言うんでしょう。これはひとつも不満はないですよ。不平は起こさないものですよ。正体を見てください。自分自身の正体。本当に。拝んでみて下さい。

それが仏道なんです。仏道って他にだからやりません。坐禅をしたって何か他の事をするんじゃないです。自分自身の今の在り様に参ずるんですよ。考え方じゃなくて。実際にそこに展開されてる自分自身の生の様子に学ぶんです。

「寒凍摩沙として鼻孔酸し」寒いもんだから、こんな風にして(身を縮める)如浄禅師がやってるのでしょうかね。そうすると、なんとなく甘酸っぱい様な香りがすると言うのでしょう。カレー汁じゃありませんよ。(笑い)でもこの言葉をですね、どの位、深く正しく理解できる人が居るかと言う事ですねぇ。一般的には如浄禅師が梅の木を題材にして、今の風景を詩に表したって言う程度の取り方しか殆どしてないですね。で、上手な、中々品の良い詩だねとか、上手い事言ってるねって言う位の評価ですね。如浄禅師はそんなために詩を詠んでる訳じゃない。

それを見事に理解してるのは、道元禅師がお一人でしょう、如浄禅師の弟子の中で。他の人は如浄禅師の真意を読み取る力がないんですよ。さずがに、やっぱり如浄禅師の後を継いだ人です、道元と言う人は。エー今話した様な事をもっと違った面から展開させていますね

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