shobogenzokandoのblog

This blog presents Kando Inoue roshi's activities, mainly his dharma talks of shobogenzo in English. Kando is the top advocate of shobogenzo by Zen Master Dogen.

タグ:正法眼蔵

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梅花 Ⅲ_02_01
梅花 Ⅲ_02_02
梅花 Ⅲ_02_03
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「『五葉』を参究しきたれば、」ここでは脚注をみると、万法て言って五葉を五つに限らず、あらゆるものと言う風にとらえておられる。それで良いと思いますが、それはね。一身と万法が別のものでないからって。そう冬の雪の降ってる中で咲いてる梅があれば、その梅を、梅が咲いてるなって言う風にして、見たり感じたりするって事は、ここでは正しく達磨、お釈迦様の眼の様子だって言う風に一応してるんでしょう。向こうにある梅の花の話ではない、梅の花の話ではなくて、自分自身の眼に映ってる様子を問題にしてると言う事でしょうね。

「雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。」不思議ですね。そこに梅の花の咲いてる所でこうやって、こうやってやると、その通りも事がその通り自分の上に、何時伝わったかも知らないけど、その通り、きちっと、きちっとその通りの事がある。正しく正伝ですね。正しく伝わる。正しく受け取る。受け継いで、附嘱、そしてそこに出合う。親しく合いまみえる。皆さんが毎日やってる事ですよ。本当にそう言う風になってますね。私が此処で喋ると聞くって言う前にその通りの事が聞こえてるからね。そう言う事も知ってほしいですね。

「只一枝の語脈裏に転身転心」身を転じ心を転じ、活き活きとした活動があるって言う事ですね。「転身転心しきたるに、」 これは、「雲月是同なり、渓山各別なり。」と言う様な事が、句が引いてあります。一方から言えば平等の世界、一方から言えばものの違いがきちっとしてる世界です。

もっと端的に言えば、空を見上げて御覧なさい。雲も月もこうやってそこにあれば、雲と月は違うんだけど、別々に見るって事はない。こうやったらいきなり雲と月が一緒に見える。全く違うものなのに。そう言う事ですね。これだけの人が此処に居る。皆違うけど、こうやってこうやってやると全部その通り、違うのに同じく見える。そう言う事が一方である。一方では確かにこの世に一人一人別なんですよね。絶対同じじゃあないんだ。それを平等即差別、差別即平等とって言う風にして、私達は使ってます。どっちか一方だけではないですね。

人間て言う名称でやれば、こうやって、人間って言う風に同一視する事が出来るのでしょう。だけど、その中に男性女性って言う違いが、こうあるから、男性女性って言う。人間としては同一なんだけども、男性女性別なんですね。年齢も別だろうし、背丈も別だろうし、そう言う違いがある。両方知って使わないと、問題が起きる事がある。偏るって言うんでしょうね。同じって言う見方の方だけを強くすると偏る。

例えば、お薬を出す時に、大人は一回にこれを三粒飲んで下さい。病院で大人の人子供の人って分けて、くれる。で時々おかしくなる人がいる。何でかなと思うと、大人だけども、子供よりも小さい人一杯いるのね。あれは効き過ぎちゃうね、完全に。で子供に、子供だからって言って、一服飲ましても中々効かない。これは1m60cm位で50kg位ある子供だったら、そりゃ子供じゃないんだよね。あれは多分年齢だけで、大人と子供分けてるんですね。

だけどお薬なんかを投与する時には、年齢だけで分けたんじゃ、恐らく危ない。それでちゃんと本人を見届けて、お薬をちゃんと配布して出すって言うのが、人間社会の在り様なんだけども、今は人そのものを見ない事が多いからね。そこまでちゃんとデーター見ないんじゃないですか。データーにしても、名前見て年齢見た位で、体重とか身長とかそこら辺まで詳しく見て、薬剤師がお薬を調合するって言う様な事は、よっぽどの選れた所でないとやりませんね。

こう言うのは、こう言う事の歪なんでしょう。どっちかに偏っている。ちゃんと使えば正しい答えが出てきます。こう言うのも勉強の必要な事でしょう。人間は皆平等だって言う。確かにそうであってほしい。じゃ平等だからって言って、皆夕食はドンブリに一杯ご飯食べろって言われて、もう結構ですって言う人います。お腹一杯で。いや平等だからって、そう言う、間違うとそう言う風な事になるでしょうね。平等って言う中には必ず違いがある。違いも見なければならない。違いを勘案して、初めて平等なんです。正しい。そう思いませんか。

八時間労働。身体の大きな人も小さな人も同じ様に働かなきゃならんて言って、重い物を持たされたり、色々あります。どっかに基準があって、そう言う見方のため偏りがあるのでしょう。まあそう言う処、一つ見て欲しいのね。で、まあ次は先程上げた様に、間違ったものの見方をしてるって言う事が上げてありますね。こう言うのは取るに足りないって言っているのですね。

「『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。」まあ、言う事は無いでしょうが。達磨さんがインドから中国に来られて禅が広がるその過程において話、じゃその前は禅は無いのか、真実は伝わってないのか、と言う様な事が道元禅師が指摘されている事でしょう。或いは六祖以降の道元禅師ご自身の様子の上にそう言う事が無いのか。もしそう言う事が伝わってないんだったら、正しくものが伝わるとは言われないんじゃないか、と。ある一時期だけそう言う事が行われている言う様な事だったら、ものが正しく伝わっていると言う事言えないんじゃないかって言う様な事でしょう。だからこう言う人達の意見て言うものは取るに足りない。子供の話よりもつまらんて言ってる。道元禅師は、子供の話がどの位素晴らしいかって言う事を知ってる。子供の話中々凄いですよ。「諸悪莫作」の巻見て下さい。

でもこれが大の大人のやってる事。もっと現代風に言ったら、研究の第一線でやってる人達がこう言う事を禅宗史とか仏教史とか言う中で唱えている。私達にあたかもそれが正しい様に教えている。よそにも道元禅師の厳しい批判があったと思いますが、五家と言われる五つの派がある。本当は派があるんじゃなくて、皆伝えるものは同じなんですね。それを別なものだって言う風に位置づけたでしょう。

曹洞宗って言うと、何処が臨済宗と違うんだって必ず言う人が居るもんだから、曹洞宗と臨済宗の違いを一生懸命述べるわけだけども、もし曹洞宗と臨済宗が違うんだったら、正伝の仏法はどうなる。正しく伝わったら分かれる訳がないです。二つも三つも。五家と言い、例え五家と言っても此処にある様に只一枝なんです。伝えているものは只一枝なんです。梅の枝だって一本しか枝が伸びない訳じゃない。一本の幹に何本も枝が出る様に、だけど、それは只一枝です。只一つの株の枝です。別々のものでは絶対ありません。そう言う事を、私達はきちっと知っておく必要があると言う事を言っておられるのですね。まあその辺で、そこら良いでしょうかね。

「先師古仏、歳旦の上堂に曰、『元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅花早春(元正祚を啓き、万物咸く新たなり。伏惟んれば大衆、梅、早春に開く)』。」って言うご垂示があった。お言葉が述べられた。お正月のご挨拶ですかね。「しづかにおもひみれば、過現当来の老古錘、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ『梅花早春』の道あらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。」

過去現在未来の老古錘って言うのは、立派な人ですね。必ずしも、年齢が高いと言う意味だけじゃありません。年齢が高いって言うんだったら、道元禅師老古錘に入りません。僅か五十四歳で亡くなっておられ、中国から帰ってきた頃には、まだ三十代にならないでしょう。今で言う、若輩ものでしょう。当時十六歳で元服ですから、立派な大人ですがね。そう言う事を考えてみると分かりますけど、老古錘って言うのは、年齢も高くとありますけれども、年齢が一番中心ではありません。力量のある人です。力量のある人って言う事は、眼がしっかり開けた人です。

そう言う方が、例え「尽十方に脱体となりとも、」飛びぬけて素晴らしく、だけどもまだ「梅花早春の開く道あらずんば、だれかなんぢを道尽箇といはん。」道の字はよく使う様に、言うと言う風に読むんでしょうね。道(みち)と読むと意味が通じない。言い尽くすと言う表現をしております。

じゃ具体的にみたらどう言う事かと言ったら、梅が春、花が咲いた。その梅の花が開いた時に、出合った時に、本当に梅の花が開いた通りに、もしならなかったら。そんな人は一人もいません。老古錘でなくても、誰でも梅の花が開いた時に触れたら、必ず梅の花の開いた様にならざるを得ないんです。それだから、ああ咲いてるって言う風になるんです。もし梅が開いた時に、そこへ出会った時に、その通りに見えなかったら、梅が咲いてるって言う様な事にはならないですね。

だから、そう言う本当に身近な些細な僅かな処に、天童如浄禅師と言うお方は眼をちゃーんとつけておられる。他に仏道って言う様な事がどっかに特殊にあるんじゃないって言う事です。皆さんが本当日常使っているその物自体に仏道の本当の真意があるでしょう。だけどお互いそうでしょうけども、眼を持って物に向かうとその通り見えるって言うのは、仏道の様子だとは思わないじゃないですか。眼の働きとしては理解できるけど、それが仏道の、しかもお釈迦様がお悟りを開いた真意だなんていう風には誰も受け取ってませんよ。

赤い物に触れたら赤く見えるのは当たり前じゃないかって、それで終わりです。白い物に向かったら、白いのは当り前だ、それが何だって言う位で終わってるんじゃないですか。それをきちっと見届けてるって言うのは、正に天童如浄禅師以外に居ないなって、道元禅師は評価してる訳です。如何ですか。それで完璧なんでしょう。赤いものが赤く見えて、白いものが白く見える。その赤いものが赤く見えるのに、赤く見えるって言うんだけども、何もする事無いんですよ。

無為にして、殊更に何か赤い物に向かって赤く見なきゃならないとか、何も殊更に自分でしないのに、いきなり赤い物に向かうとその通り赤く見える様に出来てる。それここで言う嗣所梅花ですね。正しく伝わると言う事でしょう。正伝。そこには迷いらしいものが一つも無い。惑わされる、迷惑と言う様なものも一つも無い。だからそのままで安心した生活出来てるんじゃないですか。そう言うものを証明します。それで証明されてるんじゃないですか。

だけどもそこまで赤い物に触れた時、赤く見えるって言うんだけど、そこまで心底納得が行く人って少ないですね。それ位私達は特別な処に仏法を求めてる。もっと違うものだと思ってる最初から。それ考え方の上で仏法を求めるからです。教えられた色々な知識の上で説かれている物があるから、そう言う認識を沢山持って、それで仏道と言うものを学ぼうとするから。道元禅師の様に正統な方々は、だから最初から人間の考え方の上の話を修行する時に持って来ないじゃないですか。考えじゃなくて、そこに今展開している、而今の事実、今の事実、それに参ずるって事を、徹底皆さんに基本として教えておられる。

「その宗旨は」その一番中心の内容ですね。ムイって読むんですね。梅の事をそんな発言する。ムイカイ、梅開、「梅開に帯せられて万春はやし。」梅が開く時を春と言うのでしょう。そう言った方が早い。それで十分でしょう。

日本には四季があって、衣替えなんて言うのが、何時の間にか定着していますが、今年の様に秋が来て冬が、立冬になってからも、中々涼しくならなくなった。特に秋の頃なんかはまだ暑かった。夏の着物きてても良いでしょうかって言う人がいた。エー何で秋が、立秋暦の上で着たら、秋の衣に着替えなくちゃならないか。元々は涼しくなったのを秋と言うんだね。その基本が違うんだよね。ほんとに。

そう言う事を考えないから、これだけ長い地球の歴史の中でも、どんどん、どんどん時期が変化して来てるでしょう。もう二、三ヶ月多分昔の暦と違って来てるんじゃないですかね。事実に学ぶって事じゃないですか、本当は。そしたら暑かったら、夏の着物着て別に良いじゃないですか。夏の着物とは本当は言わないんだよね。

まあそう言うな事、「万春は梅裏の一両の功徳なり。」いやー本当に春が来ると梅が一斉に咲くのでしょう。それで、ああ梅が咲いた、春になったなあと言う風にして、皆居るんじゃないですか。屁理屈を言う人は違うんですよ。屁理屈を言う人は違いますよ。人間が作った暦と言う上から物を眺めて、どうこう言うからずれるんじゃないですか。今の事実からこうやってやったら、ずれないんじゃないですか。

「一春なほよく『万物』を『咸新』ならしむ、」梅の花が一輪咲いただけで、全ての物が変わると言っていいんでしょう。そりゃ此処では梅の花って言う風にして、皆さん方が対象物として梅の花を想像してるかも知れませんが、皆さんの一々の様子ですよ。ちょっと左を向いただけで、悉く新たになりますよ。ちょっと右向いただけで、全部変わりますよ。一枚めくっただけで、全部変わりますよ。

その本の一頁をめくられただけじゃなくて、本の一頁をこうやってめくったら、全てがこれで変わりますよ。そう言う事をもうお分かりでしょう。どうですか。えーただそりゃ本の一頁めくっただけじゃない、他、何処変わった?って言う人が居るかも知れませんが、よく見て下さい。自分が立ち上がったら、一変に世界が変わりますよ。自分だけじゃなくて全てのものが。本当にそう言う風に出来てるんですね。

「万法を『元正』ならしむ。」正って、元旦正月でしょう。年が改まると言う事でしょう。だけど年が改まる処に正月、正しい月とか正しいと言う事を上げられたり、元旦の元、元と言う風な事が使われてます。それ元って元正となります。本当に、そう言う風に全てものが正しくきちっと行われてるね。違った動きは一つも出て来ないんですよね。コン!(机を打つ)こうやってやると、その通りの動きがそこで全部、それによってコロッと今までのが全部改まる様に出来てる。

同じ眼でこうやって物を見てるんだけども、その眼の様子が全部こうやって、襖に触れた時、壁に触れた時、皆それによって一変に変わるんだからね。根こそぎ変わる。そして何時もだた一心、その今触れてる様子しか出て来ない。だから見ておっても、あれとこれがどう言う風になってるって言う風な頭で、とやかくやる事一切要りませんね。眼に参じたら必ず、その今こうやって触れてる様子しか出て来ない。それがどんなに微妙な複雑そうに見える物であってもそうです。そう言う様にうまく出来てますよ。

「『啓祚』は眼睛正なり。」眼睛は眼でしょう。啓祚はここでは神から授かった幸せとか幸いとかって言う風に訳しておられるでしょ。神とか言う言葉で騙されない様に、そのもの、そのものから戴くんですね。その物がその通り、赤い薔薇だったら赤い薔薇が、赤い薔薇その通りに、私達の眼にちゃんと赤く見える様に出てきます。何のそこには屁理屈もありません。どうしてそうなる、何故そうなるって言う様な事が一切入らないですね。そう言うのを神の仕業と言うのかも知れませんね。神の為せる業と言うのかも知れません。

神と言う字と中心の心と言うものは同一ですね。意味として。中心、ものの中心、必ず物には中心がある。だけど中心て言うのは、本当に抽象的な言葉であって、ここは中心だって言って何かそこに具体的な見える様な物がある訳じゃない。こうやって吊るすと、必ず真直ぐになる処が出てきますね。この辺でやると平らに見えるかも知れません。ちょっとこっちの方でやると平らには成らなくなるとか、そう言う風に中心て言う物が必ずあるんですね。中心線て言うのは、何処に何処に置いてもだけど、出てきますね。タコを作る時、そうやって二つ位こうやってやると、二本出てきた線のここら辺に紐をつけて、こうやってやると大体上がる。

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梅花 Ⅲ_01_01
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梅花 Ⅲ_01_03
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173頁の終わりの方でいいですかね。後ろから二行目。少し読みます。

「『而今』の現成かくのごとくなる、『成荊棘』といふ。大枝に旧枝新枝の而今あり、小条に旧条新条の到処あり。処は到に参学すべし、到は今に参学すべし。三四五六花裏は、無数花裏なり。花に裏功徳の深広なるを具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり。この表裏は、一花の花発なり。『只一枝』なるがゆゑに、異枝にあらず、異種にあらず。一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり。『只一枝』のゆゑに、附嘱嫡々なり。

このゆゑに、吾有の正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。汝得は吾髄なり。かくのごとく到処の現成、ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、開五葉なり、五葉は梅花なり。このゆゑに、七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。みな『只一枝』の開五葉なり、五葉の『只一枝』なり。『一枝』を参究し、『五葉』を参究しきたれば、雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。只一枝の語脈裏に転身転心しきたるに、雲月是同なり、渓山各別なり。

しかあるを、かって参学眼なにともがらいはく、『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。この言は、挙して勘破するにたらざるなり。これらは参仏参祖の皮袋にあらず、あはれむべきなり。五葉一花の道、いかでか五代のみならん。六祖よりのちは道取せざるか。小児子の説話におよばざるなり。ゆめゆめ見聞すべからず。」


「『而今』の現成」而今(にこん・しきん)読み方はどちらでも良いでしょう。今ですね。今の現成というのは、今皆さんのこうやってる様子です。「『成荊棘』といふ。」色んな事が今のこの様子の上にあると言う事です。梅の枝なもんだから、棘と言う事になっているのでしょう。私達のこう今の様子の中に色んな事が、丁度梅の枝に棘がある様に、色んな事が一杯ありますね。

エーそれをもう少し枝になぞらえてみると、一本の根幹、幹が、大枝ですね、根幹があって、そこに古い枝と新しい枝が今、有る。梅の実はご存知の様に、旧枝に成るんですね。新しい枝がありますが。それから、
「小条に旧条新条の到処あり。」その一々ですね。枝の古い枝もあれば、新しい枝もあれば、太い幹もあれば、皆それ一本なんですけどね。一本と言う事は私達も皆一人です。生まれながらにして。他の所に何かが有る訳じゃありません。その一人一人に上に、色んな事がありますね。

「到処あり」。その処と言うのは「処は到に参学すべし、」此処でも、円通寺さんと言う所がありますが、円通寺さんに今皆さんが到着したって言う事でしょう。それが皆さんの居る場所なんでしょう。或いは道を歩いてるって言う、そこに道を歩いてる所に必ずいたんです。それが自分達の居る場所なんでしょう。だから「処は到に参学すべし、」と言う。別に難しい事ではないと思います。必ず自分が居る場所ですね。それが処なんです。到ってる処でしょう。自分が到っている処、それが自分の居る場所。その他の処に居た事がない。

じゃあ、その到るって言う事は、もう少し別な見方をしたらどう言う事かったら、今ですね。時間的には必ず今、それが到ってるって言う事です。見てるとか、聞いてるとか、坐ってるとか、読んでるとか、皆今の一々の在り様です。それがそこに到ってる時の様子。それ以外のは、だから考え方の上で描いた世界でしょう。だから学ぶ時に、実質と考え方の上で描いてるものの在り様とは全く別のものだと言う事を基本的に知っておいて欲しいですね、学ぶ時に。

私達は必ず実質に学ぶのでしょう。そうでないと分らない筈なんですね。考え方の上で出て来たもので学ぶって言う事は推測にすぎないのじゃないですかね。長い経験があるもんだから、それで一応考え方の上で推測をだして、ほぼ当たってるって言う風に誰もが思ってますから。だけど考え方の上では、ものってのは本当には無いね。そう言う処が参学の様子なんじゃないですかね。どういう風にして学んでるか。

花の数が三四五六と挙げてありますが、さらに無数とあります。それは一々皆さんの今生活している様子でしょう。その「花に裏功徳の深広なるを具足せり、」その一々の今の在り様の中に、無限の内容を含んでいると言う事でしょう。今度は裏があるから、表の方もあるでしょう。表の方はご承知の様に、誰が見てもすぐこうやって見たら分ると言う様な状況でしょう。だから梅の花で言えば、形があり色があり大きさあったりする。或いは香りもすると言う事でしょう。

じゃその「花に裏功徳の深広なるを具足せり、」って言う事はどう言う事があるかって言えば、花が咲いて、やがてそれがその中で実って行くって言う様な事があるでしょう。色んな体験を私達がしながら、その体験の中で人が育って行く、それは計り知れないものがありますね。この表裏、表と裏があるけども、どちらにしても自分自身の様子ですね。「一花の花発なり。」どんなに沢山花が咲いておっても、その一つ一つの花に、花の一つ一つの表裏の様子以外にはやっぱり無いですね。

「『只一枝』なるがゆゑに、」って言う様な表現されてます。私達だって只一枝でしょう。この世に只一人です。本当は。人が何億の人が居ようが、只一枝ですよ、皆さん。何処まで行っても、何処まで行っても自分の様子ばかりです。本当にそう言う風に出来てるから不思議です。

エーそれで、『只一枝』だって言う事は、どう言う風に有難いかって言うと、「異種にあらず。」出てきますね。他のものは無いですよね。一枝だ。これが中々、でも話してるんだけども、心底自分で納得が出来るかって言うと、中々そうでもないですね。隣に奥さんが居たり、旦那さんが居たり、子供が居たり、回りに社会の人が居たりする、一杯色んな人が居るじゃないかって。其処が先ず第一の関門なんでしょう。一枝だとは思えない。自分自身の様子だけではないって言う風に、そこで勘違いするんだよね。

何回も申し上げますけど、そのそう言う風に認識が出来てる事自体が、このものの働きですからね。他の人の様子ではないですね。見えてる事自体もこのものの働きです。そしてそれが数えられる働きも皆自分自身の様子、働きです。他の人が一切やってませんよ。それだのに、自分がやってるんだけども、何時かしら、自分自身が自分自身のやってる事の中で、自他を立てるんですね。そして、自分でないと思わせるんです。知らない内にそうやって自分で納得するんですね。

だけども、振返って小さい頃の自分を今推測すれば、生まれた事も知らない、相手と触れてるなんて事も知らない。それが自分の親であると言う事も知らない、そう言う生活してますよね。全部区別がない。兎に角自分が立たないんです。認識って言うものが全然ないんじゃないですよ。そこにお母さんらしい人が居て、おっぱいを吸いに行く訳ですから。認識が無い訳じゃないですね。ものが全然分らない訳じゃない。

何を飲んでるか分らない訳じゃない。だけども水だとかお乳だとかは言わないですね。言わないけども、本質的な力って言うものはそうやって、それが混乱しない。ここにある様に、「異種にあらず。」ですね。おっぱいはおっぱい、水は水です。それだのに、その内に自分を認める様になると、自分と違ったものだって言う風にして、其処できちっと線を引いて、そこから人間の生活がはじまったんでしょうねぇ。

だから一度、そう言う区分けの無い生活をしてる自分て言うものに、こう触れてみる必要があるんじゃないですかね、今でも。自分が立たない、自分を立てない、自分らしいものがすっかり無くなって生活している事実。向こうとかこっちとか言わずに生活が成り立ってる、そう言う処に、私達が一度触れてみる必要があるんじゃないんですかね。そう言う処に「一枝の到処を而今と称ずる、」とか言う様な事が出て来るんでしょう。本当にただ自分自分の在り様だけ。

今の様子見て御覧なさい。こうやって人の様子らしいもの無いでしょう。こうやってそう言うのどうですかね。理解いくのかしら。人間社会の常識としては、初めから自分を立て人を立てて、名前を付けて、これは井上であるとかって分けてますから、そう言う上からしか勉強してこなかったから、この事が中々受け入れられないのかも知れないね。だから、こう言う勉強もちょっとして貰ったら良いんじゃないかと思う。

「一枝の到処」を今と言う。今って言うのは自分の在り様だけです。「瞿曇老漢」て言うのはお釈迦さんの事で良いでしょう。そう言う自分に触れたんでしょう。そう言う自分の在り様に触れたんでしょう、お釈迦さん。それ迄は自分を立てた上でものの見方考え方の生活をしておられたんだけども、不思議に坐ってる内に、自分らしいものすっかり無くなって、本当に今の様子と一緒にこうやってただ生きてる、そう言う状況に触れた、そう言う中で暁の、明けの明星に触れた。触れて初めて、今まで顔を出さなかった自分がふっと顔を出して、そして今までの生活してた事、こうやって見てみると、あれ本当に天地と万物一体、梵我一如、本当に一つって言う様な分け隔ての無い、そう言う自分らしいものすっかり無くなっていたって言う事に気づいたのでしょうね。

「『只一枝』のゆゑに、附嘱嫡々なり。」一って言うものが一の儘伝われば、それは正しく伝わったと言う事でしょう。だけれども、一が一のまま伝わったんじゃ何も進歩が無いって言う風に思いがちですが、中々そうじゃないですね。まあ間単にこうやって、パン!(扇で机を打つ)音でも必ずその音は、パン!その音以外には無いですね。只一声です。パン!

沢山幾ら音がしても、その音はその音、トン、トン、トン、トン(扇で軽く机を打つ)他の音は混じらない。そう言う風に出来てるから、トン、トン音がきちっと聞く事が出来る訳ですね。そうでなければ、沢山の楽器で演奏してる時に、どの楽器の音だか分らなくなっちゃいますよね。幾らハーモニーとして和音として良い音になっても、そのパン!出してる音が他の音と、パン!混じると言うパン!パン!ことは無い。その様にして伝わって来るものなんでしょう。

そう言う事だから、「このゆゑに、吾有の正法眼蔵」一人一人持ってる本質的な在り方です。「附嘱摩訶迦葉なり。」私が持ってるものを摩訶迦葉にあげるのではないですね、附嘱するって。伝えるって事はそうです。私に有るものを上げると言う事じゃないですね。伝えると言う様な事を間違えると、そう言う風に思ってる。でも、もしそう言う事だと、私の持ってるものを上げちゃうと私が無くなっちゃう。私の持ってたもの、次の人に伝えるって言って受け渡してしまうと、私が無くなっちゃう。私の持ってるもの、そう言うもんじゃないですね。

お互いに自分自身の本当の在り様を、自分自身で成程本当にそうだって肯がえた時に、附嘱と言う事が起こる。何か物が行き来する訳じゃないですね。自分自身の事を自分自身ではっきりさせたら、それで自分をちゃんと受け継いだと言う事でしょう。だから汝が得た事は吾が髄なりでしょう。「汝得は吾髄なり。」本当の事が分ると言う事はそう言う事でしょう。その様にしてずーっと伝わって来る。

「かくのごとく到処の現成、」ですね。「ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、」本当にここ素晴らしい様子なんでしょう。自分自身を本当に見極める、はっきりさせるって言う事は、この上ない素晴らしい事でしょうねぇ。「汝自身を知れ」といわれるけれども。

「開五葉なり、五葉は梅花なり。」でその後の、さっき読んだ所に、「しかあるを、かって参学眼なきともがら」って言う様な事で出て来る訳です。歴史的に中国に渡って、達磨さんから五代、そして達磨を初祖としてとあります。達磨さんから後五代で六祖まで、そうすると一花五葉と言う事だと言う風に理解してるとこう言う事でしょうか。そう言う話ではない。別に五と言う数字とか一と言う数字が問題じゃないんだけども、数字を其処で挙げられると、数えるんですね、五つ。

何が五つだろうかとか何を一つと言うんだろうか、そう言う風にして人間は数えるから、そしてそれに説明が付く様な何かものを持ってくる。それがまあ学者でしょう。でいかにも説明が付く様な何かものを持ってくる。その論理が展開すると、一応完成されたと言う事で、ずっーと公にされて、一花五葉の場合には、達磨さんが中国にお見えになって、それが一花であって、そっから後二祖三祖四祖五祖六祖とそう言う風にして花が開いて行くと言う事でしょうかね。そう言う風な受け取り方をさせたんでしょう。

或いはもっと禅宗の歴史の中で、こう言う説もあるわけですね。五家七宗と言う。まあ曹洞宗、臨済宗、為仰宗、雲門宗、法眼宗、それで五家ですね。そう言う風に禅宗が五つの宗派に開いたって言うので一花五葉と言う。そう言う受け取り方をしてる学者も出てます。何れもそれが道元禅師の指摘されてる様に、じゃその人達だけの時代の事なのかと言ったら、そう言う風な事じゃないんじゃないかと言う事を言ってる。

私達の身体を見たら分りますが、必ずこれ一人の人に、普通の生まれ方をすればですよ、五官と言うものがある。間違いなくこの上に五官が備わっておって、それらが皆活動する様に出来てます。それらも一花五葉でしょう。お釈迦様の教えを分別した人が、五時八教と言って、五つの時間帯に、お経の全てのお経を五つの時間帯に分けて、これが天台の智者と言う人が、天台宗の基になる人がそう言う分け方をした。、そう言う風な所に五時って言う事もありでしょう。五つって言う分け方は色んな所にあります。それはそんなに問題じゃないですね。広がると言う事、色々。たったこれだけのものだけど、色んな動きがあるって言う事で十分でしょう。

それがどの人でも、何時の時代でも、そう言う働きがあるから、「七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。」十九祖って言うのは、ここにも有ります様に、道元禅師から遡って行って六祖まで行くと十九代。こう言う事ですね。西天二十八祖って言うのは、インドのお釈迦様からインドの達磨様迄を二十八代と言う風にしております。その前に七仏がある訳ですね、お釈迦様まで。それから東土の六祖って言えば、一応達磨様も入れるのですね。達磨様を初祖として六祖まで。

それで、今挙げた様に、及び十九祖って言うのは、道元禅師のご自身の様子がありますから、自分の処まで、そう言う風にある。だけども「みな『只一枝』の開五葉なり、」きちっと、そこ述べておられますよ。どの方もどの時代も、どの祖師方も只一枝です。そしてその一人の活動がその様にある。
「五葉の『只一枝』なり。」

「『一枝』を参究し、」ってあります。下の方を見ると、こう言う風に訳しておられますね。「一枝が一心、五葉が万法。一心と万法がべつのものでないから、雪裏の梅花は瞿曇の眼睛の正伝となる。」難しいな、よく分らん。私の様な頭じゃ、読んでも良く分らん。一枝が一心でもいいんだけども。一番皆さんがよく分るのは、もうこのものでしょう。自分自身でしょう。本当に何処から見たって、一生涯見たって、この頂いているこの身心ひとつで生活する以外にないじゃない。そっから一歩も出ないって言うの、皆さんよく知ってると思う。このものの活動です。全て。ああやって戸か開いたって言う様な事だって、皆、各自自分自身の上の、今様子でしょう。だけど、自分が開けてないって言う風にしてそうやって見てるの、自分ではないって。他人が来て、今入って来たと言う風に思える。理解が出来る。そう言う働きも、皆この一身の上の様子ですからね。そこ迄丁寧に説明しときますけど。そう思わないからね。説明しとかないと。

こんな質問があった。東北の震災の後、直接自分との関係があるものでは無いから、ああいうニュースを聞いて心配もするんだけど、自分の事じゃないから考えなくてもいいでしょうかって、質問があった。エーこの人何を考えてるのかなーっと思った。東北の事だって言う風な、震災のそう言う悲惨な事実を聞いたって言う事自体が自分の事だって言う事知らないんですね。直接自分の事じゃないと思ってますね。直接聞いたんですよ。直接聞いて、直接自分の事になってるから、それが問題になってるんだけど、人の事だから、そんなに考えなくてもいいんでしょうかって。

考えなくてもいいんだけど、既に問題になってる事を考えなきゃならないんじゃないないですか。自分の中でその聞いた事が見た事が、自分の中で、ほっぽいといても良いのか悪いのかって事が問題になってる。それを人に聞いて、どうしたらいいかって聞かなきゃならない。それ位自分の事であると言う事を知らない。自分の事だから問題になってる。自分の上の事だから気にかかってる。他人の上で展開している事だったら気にかからないでしょう。そう言う様な事が一枝を参究すると言う事でしょう。

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梅花 Ⅱ_03_01.
梅花 Ⅱ_03_02
梅花 Ⅱ_03_03
梅花 Ⅱ_03_04

さて「しるべし」と、次の所いきますが、「花地悉無生なり、花無生なり。」無生は生ずること無しと読むでしょう。皆さんこうやった時に、物が見える事ですよ、生まれたって思いますか。こうやってこうやって(周囲を見回す)ずーっと見て行く時、ああ新しい物が生まれたって。不生不滅って言う言葉がありますが、生ぜず滅せずって言う様な事が無生と言うんでしょう。無生。何処からこうやって、眼の処に出てくるんでしょう?物が見える。眼の処に出現するのかな?こうやって。その通りこうやって。見える事は何処から出て来るでしょう。うまれ出て来る所が無いじゃないですか、こうやってずーっと見てる時に。あそこっからそう言うものが生まれ出て来たってそう言う事ない。どうでしょうか。

手でも、こうやってですよ、(手を挙げて見せる)目の前でこうやって、何処からグーが出てくるか。何処からパーになるかってって、生まれ出て来る場所が、あそこから出て来るって言う様な気配は本当に無いんだよね。その通りの事が、ただ目の前で、本当にその通りの事があるだけだからね、いきなり。こんな事、日常生活している中で、自分の事だけど、こんな風にして観察した事ないんだよね。

生まれると思ってますよ。パン!(扇で机を打つ)こうやってやっても、あ、音が生まれたって、パンって。そう言う気がつく前に、音がしたって気がつくまでに、パン!活動してるのね、皆。気がついた時にはもう終わってるよ。そう言う様な事が、この無生と言う。

まあ今では無生(むしょう)って言う風に読む事が多いのでしょうけど。古い読み方はムサンって読んでるんですね。出産とかって産まれると言う字をサンと読むからね。もし生まれると言う様な事があると、死ぬると言う様な事が問題になるな。今見えていた物が、次こうやって次の物がこうやって他の物が見える時に、失ったって言う様な感覚、皆さん殆ど無いでしょう。さっきまで見てた物が今見たら無くなっちゃったって、そう言う風な見方をしませんね。ほんとに今見えてる物だけで、生活してるんですね。無くなっちゃったなんて、言う風にして物に触れてる事は無いですね。

考えの上じゃね、前の物見てますから、さっき見てた物が、今こうやって見えてるけど、さっきのは無いなって、そう言う見方は理解ができるから、失ったって言う風な捉え方がチラッとあるんじゃないですか。だけどこれは全然淋しがってませんよ。何も無くなってないから。ちゃんと全て見えてるから、ずっと。もしこの無生と言う事が無いとですね、生まれたり死んだりすると言う事があってですね、人が悩むんですよ。パン!(扇で机を強く打つ)聞きっぱなしで、音がしなくなってても、なくなったと誰も思ってない。パン!エー、兎に角面白いんだよね。

読んでみます。「花無生なるゆゑに地無生なり。花地悉無生のゆゑに、」悉く、生ずる事が無い故に、眼睛、眼の様子も生まれる事がない。眼の働きの様子を見る時に、物が見えるって言って、何処から出て来るらしい気配も無い、って言う事が書いてある。「無生といふは無上菩提をいふ。」って、ここですねぇ。物の本当の在り様なんです。無上菩提って。この上ないとあるでしょ。無上。菩提は阿耨多羅三藐三菩提ですから、道と訳され、この上ない在り方ですね。最高の様子と言う事でしょう。無生と言う事は。

どうして最高かって、先ほど言う様に、生き死にが無いからですよ。取るとか捨てるとかって言う事一切ないじゃないですか。取捨って言う事が一切ないじゃないですか。こうやっていて。それで居て何時でもきちっーと、その通りこうやて何処へ行っても間に合う様にできてる。更にありますよ、「正当恁麼時の見取は」今、皆さんが本当にこうやって物を見る時の在り様ですね。「正当恁麼時の見取は、『梅花只一枝』なり。」こうやったら、本当にその事があるだけじゃないですか。

よく私が言うけど、もう一つ今の様子が、今の在り様の上にですね、もう一つの今の在り様って言う事が無いと言う事ですね、今の在り様と言うものは。だから矛盾が起きないんです。迷惑しないのですよ。迷ったり惑わされたりする事が一切無いのです。それが現実でしょうが。その現実を抜きに、自分達の考え方の上で物を見ると、今の在り様の他に、色んな事が想像出来るもんだから、一杯もっと違った在り様があるって言う風に思えるんです。そりゃ見方や解釈の仕方だからです。事実はただその通りの事がその通りに有るだけですよ、先にもあった様に。

「正当恁麼時の見取は、『梅花只一枝』なり。」見取、道取って、見て取るとか或いは言い分ですね。道取。どうなってるかって言う時に、本当に雪裏の梅花只一枝。今、どうあるかと言ったら。今の上にもう一つの在り様は無いんです。どんな事をやってみても。お分かりでしょう。今の様子ってのは、もう一つの他の様子が絶対そこに重ならないし、並ばないし、それが今の様子だから。それでずーっと埋め尽くされてるじゃないですか、生涯。だからその中に身を本当に置いて、考え方じゃなくて、その真実に照らされて坐禅するのでしょう。そうすると、その内容がその通り、自分で、ああなるほど、本当にそうなってるなって、肯がえ様に出来てるんでしょう。そうやって只管打坐ってやってるんでしょう。

「地花生々なり。」まあ下にも訳してくれてる。地も花も何もかも、そう言う風に、もう一つの何か在り様がそこに有るって言う在り方はないですね。「これをさらに『雪漫々』といふは、全表裏雪漫々なり。」内も外もと、表も裏もと、言ってます。裏へ回ったら本人じゃないって言う人は有りません。表側から見たらあなたの本物であって、裏から見たらあなたじゃないって、言う様な人は居ませんね。横から見ようが縦から見ようが、足の裏の方から見ようが、何処から見てもその人に違いない。そう言う風に人間も出来てるんじゃないですか。雪ばかりじゃなくて。

だけども、表から見た時には、表から見た様に、裏から見た時には裏から見えてる様な在り方しかないですね。裏からみた時、表から見てる物と比べて見る様な見え方じゃないです。表の様子なんか何処にも無いね、裏から見てる時に。そう言う風に見えるって言う事は無い。でも人間はさっき見た表から見た時の様子を、裏から見てる時に想像するからね。凄い動物ですね。見えてないのに想像するんです。それだから、今折角、裏を見てる時に、裏が本当に見えてる事を大事にしなくなります。見ないんですよ。裏から見てる時に、裏から見てる様子を本当に見ないんです。表から見た時の様子を、何処かに、裏を見てる時に想像して見るから。そう言う欠点が有るんじゃないですか、人に。

だから、本当に眼に参ずる用があるんでしょう。本当に自分の眼に参じてみると、例えさっき、前の、前から見た様子が見れたにしても、今裏から見てる時、前から見てる様子が、一切眼には無い。その事大事な事なんです。そうでないと、やられるんですよ。チラッとでもそこに疑義がのこるんじゃないですか。そう言うな処をこうやって言いたいんですね。

「尽界は心地なり、尽界花情なり。」皆さんの自分自身の様子に違いない。身心何もかも一人一人、自分自身の在り様の他にはないでしょう。何時も申し上げるけど。あの人がどうのこうのって言う事だって、それ、あなたが見てる話であって、他の人が見てる人の話じゃないのよね。だけど、何処からかしら、自分の事じゃない様に表現してますね。あの人はって。私の見てる事なのに、あの人はって言って、別の人の動きの様に思ってる。こう言う処もチェックする必要があるでしょう。もう兎に角二十四時間、この自分の活動以外、一歩も出ないですよ。

「尽界は心地なり、尽界花情なり。」情の上の話をしたってそうでしょう。人情とか色んな情がありますが、情の話をしても、嬉しいとか悲しいとか言う話も、情の内に入るかも知れない。色んなそう言う心の働きもありますが、全部自分の上の様子以外出て来ないんだもん、しょうがないじゃない。

「尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。」このこう言う表現は、先ほど本当に梅の花に触れた時に、その様になってる事を申しあげてるだけですね。誰でも、梅の花に触れたら、梅の花のその通りにある様になるって事を言ってるだけです。それを、何回も繰り返しますけど、梅の花の、梅の花の通り、そこに咲いてる、咲いてる通り見えるって言う事は、人間は愚かだから、そんな事大事にしないんだよ。当たり前じゃないかって言うんだよね。何?それ以上、何かそれで?って言われますね。

じゃ今、梅の花に触れてる時に、梅の花以外の様子が自分に本当にあるんだったら、それ以外の事は一切無い生活をしているにも拘らずですよ、そう言う事も知らない。そして頭の中に描いてる色んなものを問題にして時を過ごしてる。真実を本当に見る、真実に目を向けるって言う事を、本当に人はやらないもんだよね。

諸法実相を窮尽するって、諸法の実相、全てのもの、ありとあらゆるものの真実の姿を、そのまま窮め尽すって言う様な事、やらないもんですね。「尽界梅花なるがゆゑに」って言うのは、本当に梅の花に触れた時に、何もかも梅の花の様子です。坐ってる事も梅の花を見てる上の坐ってる様子だし、考える事が例えあったにしても、梅の花に触れている時の考えてる自分の様子であって、それから一歩も出ませんね。飴玉をその時なめたにしても、梅の花を見てる時に、なめてる飴玉の様子です。だから「尽界は瞿曇の眼睛」と言われるのでしょう。

お釈迦様と言う人は、そう言う風な自分の生きてる本物の生き様の様子に目を向けて、それで、なるほどって自覚したんでしょう。
「『而今の到処は』」ってあります。今、到ってる処、今触れている処、今実際に生活してる様子です。而今の到処。それは「山河大地なり。」ってあります。この通りでしょう。山や河や大地。その物を離れた処で生活してる人は居ません。

「到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。」これは達磨さんの伝法の偈として知られている句でしょう。「吾本来茲土」何処に来たかって言うと、何処に来るかって言うと、今こうやっている処に人は何時でも到っているのでしょう。今こうやってる事以外に生涯ないのでしょう。他へ行くって事は無いのでしょう。今を離れてどっか行く人居ないじゃない。どんな長生きしても、今を離れてどっか行く人はいないでしょう。そうでしょ。

そして自分が居る場所以外の処で生活する人いないでしょ。茲土です。必ず茲土にいるのです。そこ以外に行く場所がないんです。だから修行する時、必ず今、ここで、私の、在り様で学ぶんです。それで、それを学ぶ時にものがはっきりするじゃないですか。今ずーっと述べて来た様に。迷情を救うんだから、今まで自分が悩んだり、苦しんだり、迷ったり、はっきりしないとか色んな事言ってた事が、自分の今のここのこう言う在り方に触れた時に、なーんだ!って言うほど、すっきりはっきり明快な答えが出る。パン!じゃないですか。出ませんか。

要するに考えてる事じゃなくて、事実に目を向けた時に、考えてる事と違うでしょう、事実は。そして事実は皆さんに嘘をつかないのでしょう。皆さんを騙さないのでしょう。迷わさないのでしょう。こうやって、(茶碗を持つ)触れたら。大人でも子供でも迷わないのでしょう。だけど、考え方にこれを持ってったら、それが何だって考え始めると、分らなくなるのでしょう。これだけで、「一花五葉に開いて結果自然成ず、」成る程本当にそうだって言う様な処に落ち着いたら、それで良いのでしょう。

「西来東漸ありといへども、」達磨さんがインドから中国へ渡ると言う様な事が、祖師西来ですが、仏法東漸と言う様な事があって、東の方へ段々伝わって来たって言う様な、一応歴史観があるのでしょう。インドを発祥の地だとする、仏教は。そうすれば、段々日本にこう伝わって来る、一応東漸と言うのでしょう。中野東禅と言う人がいますが、東漸なんでしょう。これ、アメリカの方へ行くから、仏法東漸と言うのでしょう。ヨーロッパの方に行くと、それでもこう言う風に回って行ったって言う風に考えるんですよ。インドからヨーロッパへ行ったって言う風には考えないんですよ。ねぇ、不思議だね。何でだろうね。まあそれはいいけど。兎に角、西来東漸て言うのはそう言う事でしょう。

そう言う風な事が言われたにしても、「梅花『而今の到処』なり。」本当に梅の花が咲いている所に皆さんが出合えば、否応なしに梅の花が咲いてる通りに、それ以外の所へ何処へも行きませんね、と言っております。良いでしょう。読んでみて話をすればするほどですね、本当に何でもない、ありきたりの話ですよ。もの凄く当たり前の話です。

パン!(机を打つ)だけども、当たり前なんだけども、噛みしめてみるとですね、噛みしめれば、噛みしめる程、この事が如何に大事な事かって言う事がよく分ります。これなくして、ものは成り立たないのです。本当に。でもこんな事が仏法だって思ってる人、千人の中に一人も居ませんよ。悪いけど。千人よって。現代の社会で。だからこの道元禅師がこうやって残してくれている物があっても、これ読んでる人が沢山居るんだけども、そう言う風に伝わってないんですよ。これは大問題ですね。大問題。だから私達が、本当にこの受け継ぎをきちっと出来る人を育てないと、困ると思います。

でも話してみれば、当たり前の事です。誰でもが当たり前の事だから、誰にでも勧めるのです。誰にでも勧めて、そうなってる事を誰でも分れば、必ず救われていくんです。人の力借りずに。これが自分の事だけど、自分の事がそうやって分らないから、問題が起きてるんです。殆どの場合。どうして良いか、何処に手をつけていいか分らない儘に、無暗に修行してるんですよ。どっか行けばその内、犬も歩けば棒に当たると思ってるんです。無理です、そう言う修行の仕方は。そんな事はお釈迦様以来正伝の仏教の中には無いんです。そんないい加減な導き方は。そう言う事が、正法眼蔵だと思います。正法眼蔵と言われる所以だと思うんです。

エーいいですか。いい時間で。じゃこの位で今日は終わりにしましょう。

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梅花 Ⅰ正_02_01
梅花 Ⅰ正_02_02
梅花 Ⅰ正_02_03
梅花 Ⅰ正_02_04

「いま開演ある『老梅樹』、」いま開演ある老梅樹って言うのは、皆さん一人一人の生き様、展開してる今、如実に展開してる今、在り様です。それ、はなはだ無端なり。切りがないでしょう、皆さん。朝から晩まで一日見たって、途中で何か切れてしまって終わっちゃったって言う人はないでしょう。自分の様子がざーっと切り無くあるでしょう。

途中から人の様子と入れ替わったって、そう言う事もない。本当に自分自身の様子だけがダーッとあるのでしょう。見るにしろ、聞くにしろ、考えるにしろ、全部自分自身このものの活動以外にないじゃないですか。やってる事見て下さい。あれがこれが、あんな事がこんな事がって、そう言う事だって皆このものの活動でしょう。

だけども、騙されてる人は沢山いますよね。相手があると思って、向こうのものを受け入れるって言ってます。だけども、もっと皆さんに分かり易く説明するんだったら、時間を挙げたらよくわかるでしょう。今と言う時はですね、あなたのものか私のものか、どっちのものですか。こうやってて、今と言う時は?どっちのものですか?

そこには線引きなんかが無いじゃないですか。今と言うものにおいて。全部何もかも自分の様子でしょうが。お互い。何千人居ても、これ共有してですね、しかも争った事がない。共有しながら。あなたの見てる世界に土足で踏み込んでくるって事はないでしょう。エーこうやってお互い物を見てるけども。私が見てるのに邪魔な、そんな見方してって、見てる時に入って来ないでしょうが。
いいじゃない、そんなに上手く出来てる。

端なしって、切が無い。無限。だから言葉を変えれば福寿無量と言うんでしょう。命の尽きることはない。だから安心してこうやって生活できるでしょう。「『忽開花』」たちまち花が開くって言う。忽ちってどう言う事ですか。

犬がワン!って言った時に、皆さんどうですか。そう言うの、犬がワン!って言った時にどうなってる。そう言う処を見ると、忽ち開くって言う事が良く判るでしょう。聞くなんて言う事、一つも無いですけど、いきなりワン!じゃないですか。エー、犬が向こうで鳴いて、こっちで聞いたとかって言う様な気配も全くないよ。ワン!それだけじゃない。

それ自分の身体で、自分の様子だから、自分の在り様の上で見て下さい。そうなってる。そうなってる筈です。そう言う時には耳も身体もない、不思議に。自分自身も耳も身体も全く無い。ワン!そう言う風な事が耳で聞いたとか、身体で聞いたとかって一切そんな事なしに、ワン!なるでしょう。耳で聞いてますか。どっか耳が出てきますか。身体がどっかに出てきますか。ひとつもそんな事ないでしょう。ただワン!って言う様子がそこに展開されるだけでしょう。間違いなくそれが自分が聞いてる様子でしょうが。他人の事ではない。だから不思議に聞くとか言う様な気配も全く無い。そういうの忽ちと言うんでしょう。毛筋ほども人間の気配がそこに入らない。

それだから純粋にその事がその通りに伝わるんでしょう。歪められずに。誰でもがそうやって生活してるんですよ、よく見てみたら。これから修行してそう言う風な素晴しい人になるとか、そう言う聞き方が出来る様になるとかって言う様なそんな遠い話じゃないですよ。今、誰でもがそう言う風になれてますよ。だから気が付いたら、そのまま、アアッて言って大金持ちになるでしょう。エー。

それがお釈迦様が悟られた様子でしょう。自覚される。自覚をしたら、全てのそう言う様子がそのまま自分の様子として頂ける様に出来てる。それまでは、例えその話をしてみても、信じられないから、どうしても人事の様にしか聞こえない。それで、人事の様にしか聞こえないから、そうなれたらいいな、どうしたらなれるかなって、ケチな気持ちを起こして探し始める。探し始めたら見つからないのは分ってますよね。初めっからこれは自分自身ですから。探す様なものじゃないですよ。自分自身の本当の在り様はどうあるかって言うもの。探すから分らなくなるんです。

自ずから結果す、とある。「自結菓す」そうですよ。自ずから、その様に自分自身の今の様子にふれてみると、ああ、本当にそうなってるわ。パン!(扇で机を打つ)音がしたら間違いなくその通りに在って、音が止んだらどうもしないのにどこにも聞こえないって、何時も使ってますが、パン! どうですか。

皆さんもそうやって生活してる筈ですよ。ところが上手にそう言う事を使わないもんだから、人間の生活の上で、お互いが会話をした時に、気に入らないと思う様な言葉が入って来ると、どうしても話が終わってるのに、どっかに残ってる様な気配でいますよ。自分の耳に参じてご覧なさい。パン!人間は必ず音がした時にしか聞こえない。音がしてない時にはしないんだよ。

喋ってる時にはそう言う事がその通り伝わるけど、喋り終わったらパン!(机を打つ)そう言う事はパン!無い様に出来てます。そうやって生活したら楽じゃないですか。喋り終わってから、今言った事はなんだってかんだって言って、取り上げて愚図愚図愚図愚図言って、耳はその時に音がしたらその通りに聞く力を持ってる道具です。それだけです。音がした時に、その通り聞こえれば、耳はそれで100%任務を果たしてます。それ以上の事やる必要ないでしょう。だけども、そう言う自分の本当在り様を知らないから、自分の考え方で取り扱う事をやってる、それが人間でしょうが。普通人間と言われてる者には、愚かな処があるんでしょう。

この前、農家の方と話してた。お嫁に来て間もない頃から、お寺の役員さんをしてた家だから、私も何かあると交流があった。こっちへ嫁に来た方でした。私はそんな風になると思っていませんでしたけど、話を本人がするのに、本当に生活が楽になったって言ってました。お友達が2,3人来ておりましたけども、お友達が言うのに、昔はあの人はって、今本当に見違える様な生き方してるって。そう言うのを見て、友達が勉強に来てる。その一人の人の生き様で。

じゃ何をしたのかったら、今話した様に、だたその時に喋ってる通り聞いて、喋り終わったら無し。で会話できるんですね。それで。喋ってる時に、ちゃんと喋ってる内容が分るから、その通り話が出来る。昔はそうじゃなかったんです。聞いたものを自分の思いの上で、気に入るとか入らないとか、ずーっと取り上げて生活してた。嫁に来て、厳格なお家に来て、色んな事があったんでしょう。
これでご先祖様の所に行く時に、私は胸を張って行けるわって言ってました。エー。誰にはばかることなく、此処の家に嫁に来て嫁として。この立派な家のご先祖様の処へ、召された時に、大手を振って行けるって言って。凄い宣言をするなーと思ってます。

たったこれ位の事ですよ、勉強したの。この位の事で、その位にはなるんですよ。別に坊さんでもないお百姓さん。普通に野菜を作ったりしてる。仏道ってそう言うものです。人からもらったものは何も無い。自分自身の在り様にそうやって目を向けて、ああ、本当にそうすると楽になるんだって、それで困らないんだって言う事を知ったんです。言った事を何時までも掴んでいて、愚図愚図、愚図愚図する様な事しなくても、人は困らないんだって。生活に何の支障もない。やらない方がこの様に素晴しい生き方が出来るって言う事です。

生き証人だから、私が話をするよりも、ずっとその効力があるね。私はこんな、正法眼蔵をこうやって、小難しい話を一時間もするよりも、そう言う人が来て、自分の体験談を話しをしてくれた方が、皆さんだってはるかによく分るでしょう。人の話って聞いてみればよく分る。力があるからちゃんと答える。何も教えたもの無い。エーそう言う風に自ら実を結ぶでしょう。

「あるいは春をなし、あるいは冬をなす。」このものが無限の変化をするんですよ。春になると春になった様に、身も心も何もかも。例えばここの円通寺さんだって、春になれば円通寺の建物も何もかも、皆春になるんです。鐘ひとつ打っても、春の鐘の音になるんです。冬に打ってる時の鐘の音にならないんです、春になると。歩いてみてった、春の歩いてる様子になるんです。

そう言うのは皆さんよくわかるでしょう。常識ではそうはならないんだよね。何にもどこも変わらない、春になろうが冬になろうがって思いがちだけども、本当に何もかもどうもしないのに、その通り春になると春になった様に、全部入れ替わっちゃう。冬になるとそのまま冬の様子に全部かわる。所々冬になるんじゃない。冬になって、所々冬になるなんて事はない。柱時計一つも、こう言う額でも軸でも、皆冬になる。その一番元はこれ自体(自分自身)がそうです。だからこれが冬になったら、これが冬になって、こっからこれに入ってくるんです。全部その様になるんじゃないですか。

これは説明に過ぎません。だから説明はつまらないですね。説明している時、説明でない真実があります。それは自分達自分自身の身体に聞いて下さい。真実があります。私が説明してる真実は、各自自分自身の今の様子の中にあります。それが見届けられたら、私の話を聞く事に用が無くなるでしょう。そう言う人になってほしい。それがものを本当に学んだって言うことじゃない。

「あるいは『狂風』をなし、あるいは『暴雨』をなす。」まあ兎に角、ものと一緒に変化するんです。天地同根万物一体って、誰か残した言葉でしょう。古いインドの哲学には梵我一如と言う有名な言葉が、宇宙と我と一体と言う意味です。初めっからそう言う風に出来てるでしょ。宇宙と一つなんです。別じゃないんです。何処行ったって、皆さん。見て御覧なさい。行った先々と別に生きてる人は居ないでしょうが。そう言う事を見たらよくわかるじゃん。

「あるいは『衲僧』の『頂門』なり、」身近な事を言えば、自分自身の頭の頂きですね、頂門。頂き。「あるいは古仏の眼睛なり。」昔の立派な仏様達の眼ですね。眼睛て言うのは、目の中の一番大事な処です。黒目ですね。眼睛。それはとりも直さず、皆さん方の今の眼が古仏の眼睛なんでしょう。その証拠に一度たりとも他人の眼を借りて物を見ないじゃない。

「あるいは『草木』となれり、あるいは『清』『香』となれり。」まあ一杯そうやって挙げてくれてます。言いたい事は一まとめにすれば、そう言う事です。このものの活動です。本当にそう言う風に、このものはもう時々刻々、時と共にあるんですね。今という時と別にこのものが存在する事はないんです。ねぇ、だから、暴風になれば暴風、強風が吹けば強風なんです。エー。

「驀劄」とある様にまっしぐらですかね。「神変神怪きはむべからず。」神って言う。神変。神様の神って言うのは人間の考え方でどうする事も出来ない様な、絶妙不可思議な働きをさして、この神の字を使います。日本で神様って言うのは、それに近い様なニュアンスで使ってるのかも知れませんね。

だけどコン!(机打つ)こうやってやると、どうしてそう言う風に聞こえるのか知らないんだものしょうがない。だけど、こうやってコン!やられると、否応なしにそうなる。神変神怪。怪しいまでに、何故そうなるか。幾ら追求してもわからない位。コン!追求する前に、コン!

今日来る時に、一緒にお話して来たんですが、海抜って、電話して、山の高さ、海抜っていう訳ですか、海抜って一体どういう事かって言って尋ねておられたらしいんだけど、省庁へ電話すると、私の所では分らないからあっちに聞いてくれって、こっちへ電話するとあっちでと、相当ぐるぐるぐるぐる回って、何処にも海抜って事に対するはっきりする答えが無いらしい。で最終的にどうなったかって聞いたら、東京湾の潮位がですね、一番まあ低い時を基準に、何か海抜って言うものは考えられたらしいって言う事らしい。じゃ今の海抜何メートルって言う山はですね、海水がですね、膨張している現在ですね、山の高さは正確じゃあないじゃないかと。まあそんな冗談話して来たんですけど、何時までも同じだと思ってるのね、山の高さが変わらないと思ってる。兎に角それらも「神変神怪なり」ですね。

私達の想像を絶するんですね。誰か人間的なものの上からそうやって基準を作るんだけど、作っても作っても、そんなものを難なくクリヤーして行っちゃう。真実って言うものはそう言うものですね。どんな頭のいい人がそれをとやかく言ったって、事実は替えられませんからね。エー。事実って言うのは凄いもんですよ。

だけども、人間は愚かだから、事実よりも自分達が決めた考え方の方が絶対優先だと思って譲らないんですよね。それだから事柄がうまく解決できない。事柄を本当に解決したかったら、事実に手をつけないのでしょう。皆考え方に手を付けたって、何にも変わらんでしょう。ねぇ。仏道ってそう言う大きな根源的な救いの道をちゃーんと示してるんだと思います。

「乃至大地高天、明日清月、」とあります。空や大地や月や太陽やと言う様な事ですね。そう言う事が問題にされてます。それ、本当に皆、このものの様子でしょ。この皆さんの自分自身の様子ですよ。ここら辺は、普通の勉強の仕方と違うもんだから、中々受け入れ難いのかもしれないけど、理解を少しでもして頂ける様に、一応話をしますけどね。このもの無しにはですね、無理なんですよ、全部。

次に挙げてあるように、「これ老梅樹の樹功より樹功せり。」このものの在り様に依って、日月もあり、大地もあり、空もあり、ありとあらゆるものが、このものの在り様によって、皆成立してるんです。自分の在り様だから、見た物、聞いた物、食べた物、香りがした物、或いは話でも、或いは思う事でも、皆問題になる訳です。他人の事だったら問題になりませんよ。切り離せない、本当に自分自身の活動だからですよ。本当にそう言う風に「老梅樹の樹功より樹功せり。」この一身にあって、この身心一つによって、そう言う事が全て出て来るんじゃない。

「葛藤の葛藤を結纏するなり。」そのものがその時にそのものとしてきちっと現れるのは、そう言う風に出来てるんです。寸時寸分も時間に狂いがない。その時にその場所で、その事が本当にその通りにある。どんな事でもそうです。それ位「葛藤の葛藤を結纏」するなり纏結でもいいですよね、熟語は。同じ意味です。纏わりつくというんですけども、今の事がピッタリ今の事としてあるって言う事です。時間も時も隔てずに、その通りに。一々そうです。

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梅花 Ⅰ正_01_01
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梅花 Ⅰ正_01_05
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八月一回間を置いたので、久しぶりと言う事になるのでしょう。仏祖の巻は終わったのでしょう。読み終わって梅花の巻きに入るのですかね。166ページ、一下り読みます。

「梅花 先師天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。

上堂示衆云、『天童仲冬第一句、槎々牙々老梅樹。忽開花一花両花、三四五無数花。清不可誇、香不可誇。散作春容吹草木、衲僧箇々頂門禿。驀箚変怪狂風暴雨、乃至交袞大地雪漫々。老梅樹、太無端、寒凍摩沙鼻孔酸』
(上堂の示衆に云く、『天童仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。忽ちに開花す一花両花、三四五無数花。清誇るべからず、香誇るべからず。散じては春の容と作りて草木を吹く、衲僧箇々頂門禿なり。驀劄に変怪する狂風暴雨あり、乃至大地に交袞てる雪漫々たり。老梅樹、太だ無端なり、寒凍摩沙として鼻孔酸し』)
いま開演ある『老梅樹』、それ『太無端』なり、『忽開花』す、自結菓す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは『狂風』をなし、あるいは『暴雨』をなす。あるいは『衲僧』の『頂門』なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは『草木』となれり、あるいは『清』『香』となれり。「驀劄」なる神変神怪きはむべからず。

乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。老梅樹の、『忽開花』のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の『不可誇』なり。優曇華・優鉢羅花等、おなじく老梅花樹花の一枝両枝なり。おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。

人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と称ず。万億花は仏祖花なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり。祖師本来茲土を喚作するなり。」


まあその辺まで読んで。梅花の巻の中では、道元禅師が特にお師匠について親しく参禅をされた、と言う様な事の内容が沢山出てきます。

で冒頭に今読んだ如浄禅師の一句がある訳ですが。もう十分皆さん、ご承知の事だろうと思うけども、仏道とかこう言う風な祖師方の伝えられている内容って言うのは、基本的に誰か他人の事を学ぶのではないって言う事ですね。これはもう多分百も承知であろうと思います。いかがですか。基本的にそこがはっきりしていないと、大変な事になりますね。

仏道とか禅とか言う風に言われているものが、そう言う教えって言うことの内容ってどう言う事か、他人の事を何か学ぶのではない。皆、自分自身の様子を学ぶんですね。自分自身に今備わっている内容を私達は知らないから、それをよーく学ぶ事です。仏道と言うのは、はじめっから自分の様子以外の何者でもない。それは絶対間違いのない事なんでしょうね。それを、そう言う事をよく分かった上で勉強してほしい。

そうでないと、自分と言うものをなおざりにして、他所に何かそう言う素晴しいものがあるんじゃないって言う風にして、書いたものを読んで頭で理解して、ああそうなれたらいいなとか、何時そう言う風に成れるんだろうかって、それ何処へ行ったらそう言うものが得られるだろうかって、言う様なウロウロした事が、生涯ただ頭の中で巡っているだけ、堂々巡り。ひとつも実質に触れる事がない。多くの場合、時間がかかるってのは先ずそれでしょう。

自分自身に目を向けて、自分自身の中にある様子を本当に学ぶって言う事だって言う事を、多くの方は伝え聞いてないんですね、不思議に。だから皆さん方がもし、色々な縁があって、色んな人のお話を聞いてごらんになるとよくわかる。そう言う事をきちっと伝えてくれた第一人者として、道元禅師は自分のお師匠さんを、こうやって挙げておられます。

「天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり」自分のお師匠さんを最高の敬意を持って、表しておられますね。本物なんだ、この人は。そう言う人に自分もついて、その事をきちっと明らめた、はっきりさせた、という事ですね。そう言う上で、このある日の天童如浄禅師が示された詩偈と言うのでしょうね。漢詩、まあそう言う事でいいでしょう。

この中に老梅樹と言うのが出て来ます。老梅樹と言うのは表面的に言えば、年月を重ねた梅の木ですよね。若木と違ってですね、年月のけみされた、梅の古木と言いますかね。そう言うものですよね。それはですね、見出がありますね。梅林に行ってもですよ、若木では中々味がない。

百年、二百年経っている梅の木が植えてあると、花が咲いてなくても、その梅の枝ぶりを見ただけで結構楽しめると言う様な事があります。お釈迦様からすれば、二千年に近い老梅樹ですからね。しかもその梅の一本の木がですよ、枯れずに、二千年の年月をけみしてる。それが仏道なんですよね。

命と言う表現がありますが、命って言うものは切れたら、断ち切れたら、断ち切られたら命はなくなります。続いているからこそ、命なんですね、全て。全てのもの見てもらえば分かります。盆栽なんかでもそうですけども、250年もたってる松だとかって、宮中の中にはそう言う物が何鉢も蓄えられていますけど、この暑い夏一日位、多分水をやらなければ簡単に枯れる。枯れるとですね、幾ら水やってもですね、もう無理ですね、枯れたら。まだ命がある間だったら、水をやると復帰できるけど、本当に命がそこで絶えたらですね、二度と復活しない。

人の命もそうです。死んだ人が生き返って来たって言う例はありません。殆ど死んだ様に見えた人が生き返って来る事はあります。まあ珍しい例でしょう。でも本当に死んだらですね、生き返らないのですね。だから私達も命というものつなげていかなきゃならない。それは人間の命もそうでしょう。それから教えの命もそうしょう。培った教育あるいは技術、あらゆるものがあります。そういうものを後代に伝えていく、それはまさしく生きてる人の務めです。死んだ人は出来ません。そう言う大事な使命お互い持ってます。

そこで、一言で如浄禅師の梅の木話をしてますが、まあこの老梅樹と言われている事自体が、自分自身の事を表していると言う風に理解して頂いたらいいんじゃないですか。どれ位年月を経ている梅ノ木か。遡って、遡って、遡って行って御覧なさい。どこまでいったら、私達の先祖の処に行くの?おおよそ何万年とかって言うのでしょう、人類の発生まで行くと。だけどその人類の発生の前に、まだ人類が進化してくる過程もある。そこをずーっと行くと凄い年月なんだろうね。そう言う風なしっかりと根を張った一人一人です。


それが無いと、今日の私達は、今の私達はこの世に生を受ける事が出来ないんですね。ありとあらゆるものが全部自分の命にかかわっている、と言っていいでしょう。そう言う老梅樹です。陰暦の11月。太陽暦だと何月になるの?もうちょっと遅くなるですかね。歳が明けてから。

「仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。」下に脚注があります。梅の木を見るとわかりますが、枝が出てますね。ああいう様子でしょう。此処では斜めに切るって、芽はありますが、牙は勿論芽です。枝です。まあそう言う枝ぶりの様子です。

そこにですね、忽ち花が開くとある。一花、ひとつの花、二つの花、三つ四つ五つ、無数に花が開くって言う風に示されてます。私達この身体ひとつこの世に生を受けて出て来るとですよ、その周りにあるものと、本当に周りにある物と一緒に、次から次へ無数に活動する様に出来てますね、この身体が。そうやって仏道の勉強をする。

私の所も鈴虫が、籠の中に入っていい声で鳴いてますが、リーンリリーンって言うとですね、この身体の様子として、その様に虫が鳴いた通りに、この身体の様子が、花が開く様に、そう言う事がこの上に現れますね。皆さんどの様に受け取るか知りませんが、虫が鳴いてるって言う事は、このものの様子ですよね。このものの今の生き生きとした活動の様子でしょう。向こうの方で虫が鳴いてるって言うのではなくて。取りも直さず、その事が自分自身の様子じゃないでしょうか。

こう言う事が話しをした時に難しく思えるんでしょう、一般的に。何を言ってるんだろうとか。だって俗っぽい話をすれば、皆さんの持ってる耳の働きが虫の音をあらしめるんでしょう。皆さんの持ってる目が物をあらしめるのでしょう。他のものでやってるのじゃないでしょ。この身体で全てのものが、そう言う風に、この身体によって聞く事が出来たり、見る事が出来たり、味わう事が出来たり、触る事が出来たり、感じる事が出来たり、思うことが出来るのでしょう。本当にただこの一身ですよね、身体一つ。その上に無数の数えきれない現象があるんじゃないですか。花として、開く。

ここ二、三日、私の寺にも一緒に勉強してる若い子が、東京から帰ってきて報告をしてくれた。前にも話したかも知れませんが、二月の頃に診察をうけたら、肺の癌である事が発覚して、精密に調べて貰ったら、脊髄にも転移してるし、リンパにも入ってると言う事で、一年かね、長くて三年て医者に言われたと言う子がですね、この前22,23日に行って診て貰って来た、その報告が。若い方なんだからやっぱり凄い勢いで進んでいるんでしょうね。

ご本人の口から話があったけど、そのフィルムをこうやって見せられて、話をされたのでしょうけれど、その時に説明を受けて、やっぱり愕然としたって言ってました。両方の肺が真っ白になって、骨盤も真っ白だって。それから脳にも何か一箇所位、何かあるって言う。で余命三ヶ月と言われて帰って来た。昨日から入院の手続きをして東京に行ってます。

まあ抗がん剤を、今良いって事で、抗がん剤をやる事になって、抗がん剤を受けてどうなるのかって言ったら、一応延命二ヶ月。だから二ヶ月くらいは延びると言う事で、本人はそれを聞いて、三ヶ月で終わる命があと二ヶ月、倍近く延びるんだったら、是非やりたいって言って行きましたけど。まあ身近にそう言う色んな事が起きてる。

そうこうしてる内、一昨日、30歳位になった娘さんが、娘さんて言うか女性の方がひょっこり尋ねて来て、30年位前に私の寺におじいちゃんと一緒に来た事があるって言ってました。何故か足が向いたから、こっち来た。どうしたの?って聞いたら、33才の、自分にとって、とっても大事な人が、七ヶ月で亡くなった。やっぱり癌ですかね。亡くなった。一ヶ月半病院に付き添って最後を看取ったって言ってました。その後、その為に仕事をやめたのですかね。それでその後まだグズグズしてる、と言って、私の所に来て、4時間位話をして帰った。何か元気が出たからって帰っていきました。

まあ身近にそういう命に関してですね、切実なものが私の周りに沢山あろので、色々感じるんです、私もね。でも有難い事に、その男性も医者が吃驚しているのはですね、こんなに酷いのに先ず痛まないって不思議だって。普通だったらとってもね、起きていられる状態じゃないです、歩けない。だから人って不思議ですよね。まあ他の民間療養もしてるんですけどね。そう言う事が多少効果があるのかもしれない。もうひとつは精神的な介護ですね。これはもう本当にこの仏道を修行してるって言う事で、本人は力になってますね。

彼の言を借りるとですね、「何時も言われてるけれども、本当に和尚さんが言ってる通りだって」命がそうやって切実に短くなる毎日を、こう通してですね、より一層その事は確信を持って、確かに、本当にそうなってるなって言ってました。それで、こうやって生きる自分の様子を、こうやって触れてるとですね、どこも死ぬる気配が何もないって言ってます。生き生きしてる。いちいち。こんなに素晴しい毎日生きてる姿が自分にある。それを楽しんでます。

普通の人は、多分そうやって色んな事を言われたら、こっから上でですね、(頭)此処で色んな事考え始めるんでしょうね。殆どそうです。かれは違うんですね。本当に自分の今の様子に、自分自身の在り様に目を向けている。それがどういう風に本当になっているか。それだけに学んでます。それはね、生きていく力になるんですね。精神衛生上まことに、素晴しい。学んで良かったって言ってますよ、だから。もしそ言う事を勉強してなかったら、学んでなかったら、私も気がおかしくなったかもしれない、まあそう言う。この勉強はだから素晴しいですよ。

事実、本当に今どうなってるかって言う事を、自分自身の身心上で学ぶんです。ここの(頭)じゃないです。ここで考えてることじゃない。考えの上で取り上げてる事じゃなくて、本当に自分自身の生き様としての様子、その事実に学ぶんですね。そうすると、何時どの様な事があっても、恐れる事はないでしょう。

当然いつも申し上げる様に、人は生まれた時に、もう死ぬるって事は太鼓判を押されたんですよね。その上で、日々生きてるんですからね。ところが忘れちゃうんですよね。死ぬるって言う事、太鼓判を押された事を忘れちゃって、ある日宣言されるとオタオタする。あんなの問題外でしょう、初めっから。オタオタすることじゃないでしょう。これお互い誰でもそうですよ。そういう上で生きてるんですよ。

それで死ぬる、死ぬるってよく言うけども、このものを見てみると、生きてる間は死なないんです。エー生きてる間は微塵も死ぬると言う事はない。この身心の上において。考えの上においてはあるんですよ。で、考えの上で取り扱い始めると、人はまあ苦しみ、悩みを起こすものでしょう。

そこでですね、この身体の上の色んな活動が、そこに挙げられている様に、無数の花が開く様に、毎日無限の楽しみがある。無限の喜びがある。計り知れない素晴しさがある。そういう生き様なんですよ。そんなに凄いんだけども、花として挙げれば、よく研を競うって言う言葉使いますけども、花はですね、俺の方が美しいって言ってそんな事を争った事ないですよ。

ここにある様に、「清誇るべからず、香誇るべからず。」清らかな様子も香りの様子も花の素晴しさもですね、何にも普通なんです。ただその通りの事がその通りにあるだけで、何にもひけらかすものも無い。威張るものもない。だのに清らかな香りもすれば、ねぇ、花が咲いて、その花に触れるとみんな、皆さんが感化される。

「散じては」散りてはと言うのですかね。「春の容と作りて草木を吹く、」花びらが風に散って、ザーっとこうやって風が吹いて、そこには樹木がある中に、梅の木が花をつけてますから、風が吹いて来ると、時期になると花びらがバーっと散って行くって言う見事な様子ですね。

「衲僧箇々頂門禿なり。」これはお坊さんで、天童如浄禅師の姿を、自分自身の事を言ってるんですかね。衲僧、私自身、ここ頭を見ると、こうやって髪の毛をそってつるつるって、まあ禿げと読むんでしょう。禿と言う字ですから。みんな毛が無い、頭の。それはそれで良いでしょう。

「驀劄に変怪する狂風暴雨あり、」春一番とかって言うんでしょうねぇ。強風、春の様子。凄い雨風が降るのを春一番とかって言うでしょう。ああいうものがあるでしょう。たちまちまっしぐらにとなるんですか、そう言う事が起き急変する。否応なしそうなるでしょう。皆さんだって、この8,9月台風がここら辺も来たと思うんだけども、雨風がひどくなると、そう言う中で生活してると、その通り自分の生活の様子が。それとは別にって言う人はいませんね。必ずそのものと一緒にずっと生活する様になっている。

「乃至大地に交袞てる雪漫々たり。」中国、この辺の時期には寒いから雪が山の方では積もるのでしょう。そう言う雪の積もってる中に、こう風景としては古木の梅があって、それが花をつける。先ほども触れたように、老梅樹って言うのは自分自身の事を梅の木に例えていると言う風にとって頂いたらいいのでしょう。

「老梅樹、太だ無端なり、」どういう事を言うかって言うと、お互いそうですが、自分の様子と言うのは、どこからどこまでがこうやって今、今でもそう、どこからどこまでが自分の様子かって言って尋ねてみても、此処から此処までが、自分の様子だって言う様な、なんですかねぇ、端ですね、端、際がない。

そうでしょ。眼ひとつだって、こうやって見てるんだけど、何処まで自分の見てる様子だって言って、何処までも自分の見てる様子で、ここからは他人の様子だなんて言う事、一切こうやって見て、無い。それ位、途轍もないものですね、このものは。

生涯、いつもこれも申し上げるけど、生涯この自分の頂いてる眼で、物は見るばかり。それ、如何いう事か分りますか。生涯自分の眼で見てるだけって言う事は、どういう内容なのか。他人に騙される事は一切ないって言う事ですよ。それ位、絶妙な素晴しい生き様をしてるって言う事ですよ、最初から。誰に聞かなくても、間違いなく、はっきりしてるんです、いちいち。

更に詳しく自分の眼に参じてみると、色んな事がよくわかる。眼って言うのは本当に色んな物を見るけど、無数花とある。次から次へ色んな物をみるけど、もうこれで、これ以上見る事は出来ないって言う様な、そう言うものじゃないですよね。で、幾ら出て来ても何ともなく、全部それをそのまま頂いて、どこへ入れたかも判らない。確かにこんなにはっきり一々見えてるんだけど、その時限りですよ。後にも先にもその様子は何処にもない。捨てた気配もないし、取り除いた気配もないし、入れ換えた気配も、何にもない内に、コロッとかわるんですね。

こんな働きって他にはないですよ。だから何時でもきちっとその物が見えるじゃないですか。ぶれた試しが一つもない。しかも争う事が一つもない。前に見た物と今見てる物が、並列で其処に見えるなんて事は絶対ないですね、眼って。ただ本当に今見えてる様子だけです。それで足りるのでしょう、生活するのに。足りないんだったら困るけど。何時いかなる時でも、今見えてる様子だけで足りるんでしょう。

底抜けそんなに素晴しい皆さん方はものなんですよ。一々、自分に学んで下さい。自分自身に目を向けて、自分の本当の在り様に学んで見て下さい。どうなってるか。そうすると、仏道に、あるいは釈迦が残してる言葉に書かれている通りの事が、自分の上に、今ちゃんと実現されてるじゃないですか。その事がものを学ぶと言う事なんです。他所から何か貰ってくるんじゃない。自分自身の上に言われている通りの事が、本当に成程って自分で合点が行く様に出来てる。

だから出来るとか出来ないとか言う様なけちな話では初めっからない。ちゃんとその通り実現されてる自分なんだけども、自分に目を向けて見た事がないから、自分の素晴しい出来栄えを知らないだけです。もったいないじゃないですか。そんなに素晴しい出来栄えで、愚痴る用の無い様に出来てる。知らないから愚痴るんでしょう。すぐ不平を言うんでしょう。これはひとつも不満はないですよ。不平は起こさないものですよ。正体を見てください。自分自身の正体。本当に。拝んでみて下さい。

それが仏道なんです。仏道って他にだからやりません。坐禅をしたって何か他の事をするんじゃないです。自分自身の今の在り様に参ずるんですよ。考え方じゃなくて。実際にそこに展開されてる自分自身の生の様子に学ぶんです。

「寒凍摩沙として鼻孔酸し」寒いもんだから、こんな風にして(身を縮める)如浄禅師がやってるのでしょうかね。そうすると、なんとなく甘酸っぱい様な香りがすると言うのでしょう。カレー汁じゃありませんよ。(笑い)でもこの言葉をですね、どの位、深く正しく理解できる人が居るかと言う事ですねぇ。一般的には如浄禅師が梅の木を題材にして、今の風景を詩に表したって言う程度の取り方しか殆どしてないですね。で、上手な、中々品の良い詩だねとか、上手い事言ってるねって言う位の評価ですね。如浄禅師はそんなために詩を詠んでる訳じゃない。

それを見事に理解してるのは、道元禅師がお一人でしょう、如浄禅師の弟子の中で。他の人は如浄禅師の真意を読み取る力がないんですよ。さずがに、やっぱり如浄禅師の後を継いだ人です、道元と言う人は。エー今話した様な事をもっと違った面から展開させていますね

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