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梅花 Ⅲ_02_01
梅花 Ⅲ_02_02
梅花 Ⅲ_02_03
梅花 Ⅲ_02_04
梅花 Ⅲ_02_05
「『五葉』を参究しきたれば、」ここでは脚注をみると、万法て言って五葉を五つに限らず、あらゆるものと言う風にとらえておられる。それで良いと思いますが、それはね。一身と万法が別のものでないからって。そう冬の雪の降ってる中で咲いてる梅があれば、その梅を、梅が咲いてるなって言う風にして、見たり感じたりするって事は、ここでは正しく達磨、お釈迦様の眼の様子だって言う風に一応してるんでしょう。向こうにある梅の花の話ではない、梅の花の話ではなくて、自分自身の眼に映ってる様子を問題にしてると言う事でしょうね。
「雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。」不思議ですね。そこに梅の花の咲いてる所でこうやって、こうやってやると、その通りも事がその通り自分の上に、何時伝わったかも知らないけど、その通り、きちっと、きちっとその通りの事がある。正しく正伝ですね。正しく伝わる。正しく受け取る。受け継いで、附嘱、そしてそこに出合う。親しく合いまみえる。皆さんが毎日やってる事ですよ。本当にそう言う風になってますね。私が此処で喋ると聞くって言う前にその通りの事が聞こえてるからね。そう言う事も知ってほしいですね。
「只一枝の語脈裏に転身転心」身を転じ心を転じ、活き活きとした活動があるって言う事ですね。「転身転心しきたるに、」 これは、「雲月是同なり、渓山各別なり。」と言う様な事が、句が引いてあります。一方から言えば平等の世界、一方から言えばものの違いがきちっとしてる世界です。
もっと端的に言えば、空を見上げて御覧なさい。雲も月もこうやってそこにあれば、雲と月は違うんだけど、別々に見るって事はない。こうやったらいきなり雲と月が一緒に見える。全く違うものなのに。そう言う事ですね。これだけの人が此処に居る。皆違うけど、こうやってこうやってやると全部その通り、違うのに同じく見える。そう言う事が一方である。一方では確かにこの世に一人一人別なんですよね。絶対同じじゃあないんだ。それを平等即差別、差別即平等とって言う風にして、私達は使ってます。どっちか一方だけではないですね。
人間て言う名称でやれば、こうやって、人間って言う風に同一視する事が出来るのでしょう。だけど、その中に男性女性って言う違いが、こうあるから、男性女性って言う。人間としては同一なんだけども、男性女性別なんですね。年齢も別だろうし、背丈も別だろうし、そう言う違いがある。両方知って使わないと、問題が起きる事がある。偏るって言うんでしょうね。同じって言う見方の方だけを強くすると偏る。
例えば、お薬を出す時に、大人は一回にこれを三粒飲んで下さい。病院で大人の人子供の人って分けて、くれる。で時々おかしくなる人がいる。何でかなと思うと、大人だけども、子供よりも小さい人一杯いるのね。あれは効き過ぎちゃうね、完全に。で子供に、子供だからって言って、一服飲ましても中々効かない。これは1m60cm位で50kg位ある子供だったら、そりゃ子供じゃないんだよね。あれは多分年齢だけで、大人と子供分けてるんですね。
だけどお薬なんかを投与する時には、年齢だけで分けたんじゃ、恐らく危ない。それでちゃんと本人を見届けて、お薬をちゃんと配布して出すって言うのが、人間社会の在り様なんだけども、今は人そのものを見ない事が多いからね。そこまでちゃんとデーター見ないんじゃないですか。データーにしても、名前見て年齢見た位で、体重とか身長とかそこら辺まで詳しく見て、薬剤師がお薬を調合するって言う様な事は、よっぽどの選れた所でないとやりませんね。
こう言うのは、こう言う事の歪なんでしょう。どっちかに偏っている。ちゃんと使えば正しい答えが出てきます。こう言うのも勉強の必要な事でしょう。人間は皆平等だって言う。確かにそうであってほしい。じゃ平等だからって言って、皆夕食はドンブリに一杯ご飯食べろって言われて、もう結構ですって言う人います。お腹一杯で。いや平等だからって、そう言う、間違うとそう言う風な事になるでしょうね。平等って言う中には必ず違いがある。違いも見なければならない。違いを勘案して、初めて平等なんです。正しい。そう思いませんか。
八時間労働。身体の大きな人も小さな人も同じ様に働かなきゃならんて言って、重い物を持たされたり、色々あります。どっかに基準があって、そう言う見方のため偏りがあるのでしょう。まあそう言う処、一つ見て欲しいのね。で、まあ次は先程上げた様に、間違ったものの見方をしてるって言う事が上げてありますね。こう言うのは取るに足りないって言っているのですね。
「『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。」まあ、言う事は無いでしょうが。達磨さんがインドから中国に来られて禅が広がるその過程において話、じゃその前は禅は無いのか、真実は伝わってないのか、と言う様な事が道元禅師が指摘されている事でしょう。或いは六祖以降の道元禅師ご自身の様子の上にそう言う事が無いのか。もしそう言う事が伝わってないんだったら、正しくものが伝わるとは言われないんじゃないか、と。ある一時期だけそう言う事が行われている言う様な事だったら、ものが正しく伝わっていると言う事言えないんじゃないかって言う様な事でしょう。だからこう言う人達の意見て言うものは取るに足りない。子供の話よりもつまらんて言ってる。道元禅師は、子供の話がどの位素晴らしいかって言う事を知ってる。子供の話中々凄いですよ。「諸悪莫作」の巻見て下さい。
でもこれが大の大人のやってる事。もっと現代風に言ったら、研究の第一線でやってる人達がこう言う事を禅宗史とか仏教史とか言う中で唱えている。私達にあたかもそれが正しい様に教えている。よそにも道元禅師の厳しい批判があったと思いますが、五家と言われる五つの派がある。本当は派があるんじゃなくて、皆伝えるものは同じなんですね。それを別なものだって言う風に位置づけたでしょう。
曹洞宗って言うと、何処が臨済宗と違うんだって必ず言う人が居るもんだから、曹洞宗と臨済宗の違いを一生懸命述べるわけだけども、もし曹洞宗と臨済宗が違うんだったら、正伝の仏法はどうなる。正しく伝わったら分かれる訳がないです。二つも三つも。五家と言い、例え五家と言っても此処にある様に只一枝なんです。伝えているものは只一枝なんです。梅の枝だって一本しか枝が伸びない訳じゃない。一本の幹に何本も枝が出る様に、だけど、それは只一枝です。只一つの株の枝です。別々のものでは絶対ありません。そう言う事を、私達はきちっと知っておく必要があると言う事を言っておられるのですね。まあその辺で、そこら良いでしょうかね。
「先師古仏、歳旦の上堂に曰、『元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅花早春(元正祚を啓き、万物咸く新たなり。伏惟んれば大衆、梅、早春に開く)』。」って言うご垂示があった。お言葉が述べられた。お正月のご挨拶ですかね。「しづかにおもひみれば、過現当来の老古錘、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ『梅花早春』の道あらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。」
過去現在未来の老古錘って言うのは、立派な人ですね。必ずしも、年齢が高いと言う意味だけじゃありません。年齢が高いって言うんだったら、道元禅師老古錘に入りません。僅か五十四歳で亡くなっておられ、中国から帰ってきた頃には、まだ三十代にならないでしょう。今で言う、若輩ものでしょう。当時十六歳で元服ですから、立派な大人ですがね。そう言う事を考えてみると分かりますけど、老古錘って言うのは、年齢も高くとありますけれども、年齢が一番中心ではありません。力量のある人です。力量のある人って言う事は、眼がしっかり開けた人です。
そう言う方が、例え「尽十方に脱体となりとも、」飛びぬけて素晴らしく、だけどもまだ「梅花早春の開く道あらずんば、だれかなんぢを道尽箇といはん。」道の字はよく使う様に、言うと言う風に読むんでしょうね。道(みち)と読むと意味が通じない。言い尽くすと言う表現をしております。
じゃ具体的にみたらどう言う事かと言ったら、梅が春、花が咲いた。その梅の花が開いた時に、出合った時に、本当に梅の花が開いた通りに、もしならなかったら。そんな人は一人もいません。老古錘でなくても、誰でも梅の花が開いた時に触れたら、必ず梅の花の開いた様にならざるを得ないんです。それだから、ああ咲いてるって言う風になるんです。もし梅が開いた時に、そこへ出会った時に、その通りに見えなかったら、梅が咲いてるって言う様な事にはならないですね。
だから、そう言う本当に身近な些細な僅かな処に、天童如浄禅師と言うお方は眼をちゃーんとつけておられる。他に仏道って言う様な事がどっかに特殊にあるんじゃないって言う事です。皆さんが本当日常使っているその物自体に仏道の本当の真意があるでしょう。だけどお互いそうでしょうけども、眼を持って物に向かうとその通り見えるって言うのは、仏道の様子だとは思わないじゃないですか。眼の働きとしては理解できるけど、それが仏道の、しかもお釈迦様がお悟りを開いた真意だなんていう風には誰も受け取ってませんよ。
赤い物に触れたら赤く見えるのは当たり前じゃないかって、それで終わりです。白い物に向かったら、白いのは当り前だ、それが何だって言う位で終わってるんじゃないですか。それをきちっと見届けてるって言うのは、正に天童如浄禅師以外に居ないなって、道元禅師は評価してる訳です。如何ですか。それで完璧なんでしょう。赤いものが赤く見えて、白いものが白く見える。その赤いものが赤く見えるのに、赤く見えるって言うんだけども、何もする事無いんですよ。
無為にして、殊更に何か赤い物に向かって赤く見なきゃならないとか、何も殊更に自分でしないのに、いきなり赤い物に向かうとその通り赤く見える様に出来てる。それここで言う嗣所梅花ですね。正しく伝わると言う事でしょう。正伝。そこには迷いらしいものが一つも無い。惑わされる、迷惑と言う様なものも一つも無い。だからそのままで安心した生活出来てるんじゃないですか。そう言うものを証明します。それで証明されてるんじゃないですか。
だけどもそこまで赤い物に触れた時、赤く見えるって言うんだけど、そこまで心底納得が行く人って少ないですね。それ位私達は特別な処に仏法を求めてる。もっと違うものだと思ってる最初から。それ考え方の上で仏法を求めるからです。教えられた色々な知識の上で説かれている物があるから、そう言う認識を沢山持って、それで仏道と言うものを学ぼうとするから。道元禅師の様に正統な方々は、だから最初から人間の考え方の上の話を修行する時に持って来ないじゃないですか。考えじゃなくて、そこに今展開している、而今の事実、今の事実、それに参ずるって事を、徹底皆さんに基本として教えておられる。
「その宗旨は」その一番中心の内容ですね。ムイって読むんですね。梅の事をそんな発言する。ムイカイ、梅開、「梅開に帯せられて万春はやし。」梅が開く時を春と言うのでしょう。そう言った方が早い。それで十分でしょう。
日本には四季があって、衣替えなんて言うのが、何時の間にか定着していますが、今年の様に秋が来て冬が、立冬になってからも、中々涼しくならなくなった。特に秋の頃なんかはまだ暑かった。夏の着物きてても良いでしょうかって言う人がいた。エー何で秋が、立秋暦の上で着たら、秋の衣に着替えなくちゃならないか。元々は涼しくなったのを秋と言うんだね。その基本が違うんだよね。ほんとに。
そう言う事を考えないから、これだけ長い地球の歴史の中でも、どんどん、どんどん時期が変化して来てるでしょう。もう二、三ヶ月多分昔の暦と違って来てるんじゃないですかね。事実に学ぶって事じゃないですか、本当は。そしたら暑かったら、夏の着物着て別に良いじゃないですか。夏の着物とは本当は言わないんだよね。
まあそう言うな事、「万春は梅裏の一両の功徳なり。」いやー本当に春が来ると梅が一斉に咲くのでしょう。それで、ああ梅が咲いた、春になったなあと言う風にして、皆居るんじゃないですか。屁理屈を言う人は違うんですよ。屁理屈を言う人は違いますよ。人間が作った暦と言う上から物を眺めて、どうこう言うからずれるんじゃないですか。今の事実からこうやってやったら、ずれないんじゃないですか。
「一春なほよく『万物』を『咸新』ならしむ、」梅の花が一輪咲いただけで、全ての物が変わると言っていいんでしょう。そりゃ此処では梅の花って言う風にして、皆さん方が対象物として梅の花を想像してるかも知れませんが、皆さんの一々の様子ですよ。ちょっと左を向いただけで、悉く新たになりますよ。ちょっと右向いただけで、全部変わりますよ。一枚めくっただけで、全部変わりますよ。
その本の一頁をめくられただけじゃなくて、本の一頁をこうやってめくったら、全てがこれで変わりますよ。そう言う事をもうお分かりでしょう。どうですか。えーただそりゃ本の一頁めくっただけじゃない、他、何処変わった?って言う人が居るかも知れませんが、よく見て下さい。自分が立ち上がったら、一変に世界が変わりますよ。自分だけじゃなくて全てのものが。本当にそう言う風に出来てるんですね。
「万法を『元正』ならしむ。」正って、元旦正月でしょう。年が改まると言う事でしょう。だけど年が改まる処に正月、正しい月とか正しいと言う事を上げられたり、元旦の元、元と言う風な事が使われてます。それ元って元正となります。本当に、そう言う風に全てものが正しくきちっと行われてるね。違った動きは一つも出て来ないんですよね。コン!(机を打つ)こうやってやると、その通りの動きがそこで全部、それによってコロッと今までのが全部改まる様に出来てる。
同じ眼でこうやって物を見てるんだけども、その眼の様子が全部こうやって、襖に触れた時、壁に触れた時、皆それによって一変に変わるんだからね。根こそぎ変わる。そして何時もだた一心、その今触れてる様子しか出て来ない。だから見ておっても、あれとこれがどう言う風になってるって言う風な頭で、とやかくやる事一切要りませんね。眼に参じたら必ず、その今こうやって触れてる様子しか出て来ない。それがどんなに微妙な複雑そうに見える物であってもそうです。そう言う様にうまく出来てますよ。
「『啓祚』は眼睛正なり。」眼睛は眼でしょう。啓祚はここでは神から授かった幸せとか幸いとかって言う風に訳しておられるでしょ。神とか言う言葉で騙されない様に、そのもの、そのものから戴くんですね。その物がその通り、赤い薔薇だったら赤い薔薇が、赤い薔薇その通りに、私達の眼にちゃんと赤く見える様に出てきます。何のそこには屁理屈もありません。どうしてそうなる、何故そうなるって言う様な事が一切入らないですね。そう言うのを神の仕業と言うのかも知れませんね。神の為せる業と言うのかも知れません。
神と言う字と中心の心と言うものは同一ですね。意味として。中心、ものの中心、必ず物には中心がある。だけど中心て言うのは、本当に抽象的な言葉であって、ここは中心だって言って何かそこに具体的な見える様な物がある訳じゃない。こうやって吊るすと、必ず真直ぐになる処が出てきますね。この辺でやると平らに見えるかも知れません。ちょっとこっちの方でやると平らには成らなくなるとか、そう言う風に中心て言う物が必ずあるんですね。中心線て言うのは、何処に何処に置いてもだけど、出てきますね。タコを作る時、そうやって二つ位こうやってやると、二本出てきた線のここら辺に紐をつけて、こうやってやると大体上がる。
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梅花 Ⅲ_02_04
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「『五葉』を参究しきたれば、」ここでは脚注をみると、万法て言って五葉を五つに限らず、あらゆるものと言う風にとらえておられる。それで良いと思いますが、それはね。一身と万法が別のものでないからって。そう冬の雪の降ってる中で咲いてる梅があれば、その梅を、梅が咲いてるなって言う風にして、見たり感じたりするって事は、ここでは正しく達磨、お釈迦様の眼の様子だって言う風に一応してるんでしょう。向こうにある梅の花の話ではない、梅の花の話ではなくて、自分自身の眼に映ってる様子を問題にしてると言う事でしょうね。
「雪裏の梅花の正伝附嘱相見なり。」不思議ですね。そこに梅の花の咲いてる所でこうやって、こうやってやると、その通りも事がその通り自分の上に、何時伝わったかも知らないけど、その通り、きちっと、きちっとその通りの事がある。正しく正伝ですね。正しく伝わる。正しく受け取る。受け継いで、附嘱、そしてそこに出合う。親しく合いまみえる。皆さんが毎日やってる事ですよ。本当にそう言う風になってますね。私が此処で喋ると聞くって言う前にその通りの事が聞こえてるからね。そう言う事も知ってほしいですね。
「只一枝の語脈裏に転身転心」身を転じ心を転じ、活き活きとした活動があるって言う事ですね。「転身転心しきたるに、」 これは、「雲月是同なり、渓山各別なり。」と言う様な事が、句が引いてあります。一方から言えば平等の世界、一方から言えばものの違いがきちっとしてる世界です。
もっと端的に言えば、空を見上げて御覧なさい。雲も月もこうやってそこにあれば、雲と月は違うんだけど、別々に見るって事はない。こうやったらいきなり雲と月が一緒に見える。全く違うものなのに。そう言う事ですね。これだけの人が此処に居る。皆違うけど、こうやってこうやってやると全部その通り、違うのに同じく見える。そう言う事が一方である。一方では確かにこの世に一人一人別なんですよね。絶対同じじゃあないんだ。それを平等即差別、差別即平等とって言う風にして、私達は使ってます。どっちか一方だけではないですね。
人間て言う名称でやれば、こうやって、人間って言う風に同一視する事が出来るのでしょう。だけど、その中に男性女性って言う違いが、こうあるから、男性女性って言う。人間としては同一なんだけども、男性女性別なんですね。年齢も別だろうし、背丈も別だろうし、そう言う違いがある。両方知って使わないと、問題が起きる事がある。偏るって言うんでしょうね。同じって言う見方の方だけを強くすると偏る。
例えば、お薬を出す時に、大人は一回にこれを三粒飲んで下さい。病院で大人の人子供の人って分けて、くれる。で時々おかしくなる人がいる。何でかなと思うと、大人だけども、子供よりも小さい人一杯いるのね。あれは効き過ぎちゃうね、完全に。で子供に、子供だからって言って、一服飲ましても中々効かない。これは1m60cm位で50kg位ある子供だったら、そりゃ子供じゃないんだよね。あれは多分年齢だけで、大人と子供分けてるんですね。
だけどお薬なんかを投与する時には、年齢だけで分けたんじゃ、恐らく危ない。それでちゃんと本人を見届けて、お薬をちゃんと配布して出すって言うのが、人間社会の在り様なんだけども、今は人そのものを見ない事が多いからね。そこまでちゃんとデーター見ないんじゃないですか。データーにしても、名前見て年齢見た位で、体重とか身長とかそこら辺まで詳しく見て、薬剤師がお薬を調合するって言う様な事は、よっぽどの選れた所でないとやりませんね。
こう言うのは、こう言う事の歪なんでしょう。どっちかに偏っている。ちゃんと使えば正しい答えが出てきます。こう言うのも勉強の必要な事でしょう。人間は皆平等だって言う。確かにそうであってほしい。じゃ平等だからって言って、皆夕食はドンブリに一杯ご飯食べろって言われて、もう結構ですって言う人います。お腹一杯で。いや平等だからって、そう言う、間違うとそう言う風な事になるでしょうね。平等って言う中には必ず違いがある。違いも見なければならない。違いを勘案して、初めて平等なんです。正しい。そう思いませんか。
八時間労働。身体の大きな人も小さな人も同じ様に働かなきゃならんて言って、重い物を持たされたり、色々あります。どっかに基準があって、そう言う見方のため偏りがあるのでしょう。まあそう言う処、一つ見て欲しいのね。で、まあ次は先程上げた様に、間違ったものの見方をしてるって言う事が上げてありますね。こう言うのは取るに足りないって言っているのですね。
「『五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふ』と。」まあ、言う事は無いでしょうが。達磨さんがインドから中国に来られて禅が広がるその過程において話、じゃその前は禅は無いのか、真実は伝わってないのか、と言う様な事が道元禅師が指摘されている事でしょう。或いは六祖以降の道元禅師ご自身の様子の上にそう言う事が無いのか。もしそう言う事が伝わってないんだったら、正しくものが伝わるとは言われないんじゃないか、と。ある一時期だけそう言う事が行われている言う様な事だったら、ものが正しく伝わっていると言う事言えないんじゃないかって言う様な事でしょう。だからこう言う人達の意見て言うものは取るに足りない。子供の話よりもつまらんて言ってる。道元禅師は、子供の話がどの位素晴らしいかって言う事を知ってる。子供の話中々凄いですよ。「諸悪莫作」の巻見て下さい。
でもこれが大の大人のやってる事。もっと現代風に言ったら、研究の第一線でやってる人達がこう言う事を禅宗史とか仏教史とか言う中で唱えている。私達にあたかもそれが正しい様に教えている。よそにも道元禅師の厳しい批判があったと思いますが、五家と言われる五つの派がある。本当は派があるんじゃなくて、皆伝えるものは同じなんですね。それを別なものだって言う風に位置づけたでしょう。
曹洞宗って言うと、何処が臨済宗と違うんだって必ず言う人が居るもんだから、曹洞宗と臨済宗の違いを一生懸命述べるわけだけども、もし曹洞宗と臨済宗が違うんだったら、正伝の仏法はどうなる。正しく伝わったら分かれる訳がないです。二つも三つも。五家と言い、例え五家と言っても此処にある様に只一枝なんです。伝えているものは只一枝なんです。梅の枝だって一本しか枝が伸びない訳じゃない。一本の幹に何本も枝が出る様に、だけど、それは只一枝です。只一つの株の枝です。別々のものでは絶対ありません。そう言う事を、私達はきちっと知っておく必要があると言う事を言っておられるのですね。まあその辺で、そこら良いでしょうかね。
「先師古仏、歳旦の上堂に曰、『元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅花早春(元正祚を啓き、万物咸く新たなり。伏惟んれば大衆、梅、早春に開く)』。」って言うご垂示があった。お言葉が述べられた。お正月のご挨拶ですかね。「しづかにおもひみれば、過現当来の老古錘、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ『梅花早春』の道あらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。」
過去現在未来の老古錘って言うのは、立派な人ですね。必ずしも、年齢が高いと言う意味だけじゃありません。年齢が高いって言うんだったら、道元禅師老古錘に入りません。僅か五十四歳で亡くなっておられ、中国から帰ってきた頃には、まだ三十代にならないでしょう。今で言う、若輩ものでしょう。当時十六歳で元服ですから、立派な大人ですがね。そう言う事を考えてみると分かりますけど、老古錘って言うのは、年齢も高くとありますけれども、年齢が一番中心ではありません。力量のある人です。力量のある人って言う事は、眼がしっかり開けた人です。
そう言う方が、例え「尽十方に脱体となりとも、」飛びぬけて素晴らしく、だけどもまだ「梅花早春の開く道あらずんば、だれかなんぢを道尽箇といはん。」道の字はよく使う様に、言うと言う風に読むんでしょうね。道(みち)と読むと意味が通じない。言い尽くすと言う表現をしております。
じゃ具体的にみたらどう言う事かと言ったら、梅が春、花が咲いた。その梅の花が開いた時に、出合った時に、本当に梅の花が開いた通りに、もしならなかったら。そんな人は一人もいません。老古錘でなくても、誰でも梅の花が開いた時に触れたら、必ず梅の花の開いた様にならざるを得ないんです。それだから、ああ咲いてるって言う風になるんです。もし梅が開いた時に、そこへ出会った時に、その通りに見えなかったら、梅が咲いてるって言う様な事にはならないですね。
だから、そう言う本当に身近な些細な僅かな処に、天童如浄禅師と言うお方は眼をちゃーんとつけておられる。他に仏道って言う様な事がどっかに特殊にあるんじゃないって言う事です。皆さんが本当日常使っているその物自体に仏道の本当の真意があるでしょう。だけどお互いそうでしょうけども、眼を持って物に向かうとその通り見えるって言うのは、仏道の様子だとは思わないじゃないですか。眼の働きとしては理解できるけど、それが仏道の、しかもお釈迦様がお悟りを開いた真意だなんていう風には誰も受け取ってませんよ。
赤い物に触れたら赤く見えるのは当たり前じゃないかって、それで終わりです。白い物に向かったら、白いのは当り前だ、それが何だって言う位で終わってるんじゃないですか。それをきちっと見届けてるって言うのは、正に天童如浄禅師以外に居ないなって、道元禅師は評価してる訳です。如何ですか。それで完璧なんでしょう。赤いものが赤く見えて、白いものが白く見える。その赤いものが赤く見えるのに、赤く見えるって言うんだけども、何もする事無いんですよ。
無為にして、殊更に何か赤い物に向かって赤く見なきゃならないとか、何も殊更に自分でしないのに、いきなり赤い物に向かうとその通り赤く見える様に出来てる。それここで言う嗣所梅花ですね。正しく伝わると言う事でしょう。正伝。そこには迷いらしいものが一つも無い。惑わされる、迷惑と言う様なものも一つも無い。だからそのままで安心した生活出来てるんじゃないですか。そう言うものを証明します。それで証明されてるんじゃないですか。
だけどもそこまで赤い物に触れた時、赤く見えるって言うんだけど、そこまで心底納得が行く人って少ないですね。それ位私達は特別な処に仏法を求めてる。もっと違うものだと思ってる最初から。それ考え方の上で仏法を求めるからです。教えられた色々な知識の上で説かれている物があるから、そう言う認識を沢山持って、それで仏道と言うものを学ぼうとするから。道元禅師の様に正統な方々は、だから最初から人間の考え方の上の話を修行する時に持って来ないじゃないですか。考えじゃなくて、そこに今展開している、而今の事実、今の事実、それに参ずるって事を、徹底皆さんに基本として教えておられる。
「その宗旨は」その一番中心の内容ですね。ムイって読むんですね。梅の事をそんな発言する。ムイカイ、梅開、「梅開に帯せられて万春はやし。」梅が開く時を春と言うのでしょう。そう言った方が早い。それで十分でしょう。
日本には四季があって、衣替えなんて言うのが、何時の間にか定着していますが、今年の様に秋が来て冬が、立冬になってからも、中々涼しくならなくなった。特に秋の頃なんかはまだ暑かった。夏の着物きてても良いでしょうかって言う人がいた。エー何で秋が、立秋暦の上で着たら、秋の衣に着替えなくちゃならないか。元々は涼しくなったのを秋と言うんだね。その基本が違うんだよね。ほんとに。
そう言う事を考えないから、これだけ長い地球の歴史の中でも、どんどん、どんどん時期が変化して来てるでしょう。もう二、三ヶ月多分昔の暦と違って来てるんじゃないですかね。事実に学ぶって事じゃないですか、本当は。そしたら暑かったら、夏の着物着て別に良いじゃないですか。夏の着物とは本当は言わないんだよね。
まあそう言うな事、「万春は梅裏の一両の功徳なり。」いやー本当に春が来ると梅が一斉に咲くのでしょう。それで、ああ梅が咲いた、春になったなあと言う風にして、皆居るんじゃないですか。屁理屈を言う人は違うんですよ。屁理屈を言う人は違いますよ。人間が作った暦と言う上から物を眺めて、どうこう言うからずれるんじゃないですか。今の事実からこうやってやったら、ずれないんじゃないですか。
「一春なほよく『万物』を『咸新』ならしむ、」梅の花が一輪咲いただけで、全ての物が変わると言っていいんでしょう。そりゃ此処では梅の花って言う風にして、皆さん方が対象物として梅の花を想像してるかも知れませんが、皆さんの一々の様子ですよ。ちょっと左を向いただけで、悉く新たになりますよ。ちょっと右向いただけで、全部変わりますよ。一枚めくっただけで、全部変わりますよ。
その本の一頁をめくられただけじゃなくて、本の一頁をこうやってめくったら、全てがこれで変わりますよ。そう言う事をもうお分かりでしょう。どうですか。えーただそりゃ本の一頁めくっただけじゃない、他、何処変わった?って言う人が居るかも知れませんが、よく見て下さい。自分が立ち上がったら、一変に世界が変わりますよ。自分だけじゃなくて全てのものが。本当にそう言う風に出来てるんですね。
「万法を『元正』ならしむ。」正って、元旦正月でしょう。年が改まると言う事でしょう。だけど年が改まる処に正月、正しい月とか正しいと言う事を上げられたり、元旦の元、元と言う風な事が使われてます。それ元って元正となります。本当に、そう言う風に全てものが正しくきちっと行われてるね。違った動きは一つも出て来ないんですよね。コン!(机を打つ)こうやってやると、その通りの動きがそこで全部、それによってコロッと今までのが全部改まる様に出来てる。
同じ眼でこうやって物を見てるんだけども、その眼の様子が全部こうやって、襖に触れた時、壁に触れた時、皆それによって一変に変わるんだからね。根こそぎ変わる。そして何時もだた一心、その今触れてる様子しか出て来ない。だから見ておっても、あれとこれがどう言う風になってるって言う風な頭で、とやかくやる事一切要りませんね。眼に参じたら必ず、その今こうやって触れてる様子しか出て来ない。それがどんなに微妙な複雑そうに見える物であってもそうです。そう言う様にうまく出来てますよ。
「『啓祚』は眼睛正なり。」眼睛は眼でしょう。啓祚はここでは神から授かった幸せとか幸いとかって言う風に訳しておられるでしょ。神とか言う言葉で騙されない様に、そのもの、そのものから戴くんですね。その物がその通り、赤い薔薇だったら赤い薔薇が、赤い薔薇その通りに、私達の眼にちゃんと赤く見える様に出てきます。何のそこには屁理屈もありません。どうしてそうなる、何故そうなるって言う様な事が一切入らないですね。そう言うのを神の仕業と言うのかも知れませんね。神の為せる業と言うのかも知れません。
神と言う字と中心の心と言うものは同一ですね。意味として。中心、ものの中心、必ず物には中心がある。だけど中心て言うのは、本当に抽象的な言葉であって、ここは中心だって言って何かそこに具体的な見える様な物がある訳じゃない。こうやって吊るすと、必ず真直ぐになる処が出てきますね。この辺でやると平らに見えるかも知れません。ちょっとこっちの方でやると平らには成らなくなるとか、そう言う風に中心て言う物が必ずあるんですね。中心線て言うのは、何処に何処に置いてもだけど、出てきますね。タコを作る時、そうやって二つ位こうやってやると、二本出てきた線のここら辺に紐をつけて、こうやってやると大体上がる。