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梅花 Ⅴ_01_01
梅花 Ⅴ_01_02
梅花 Ⅴ_01_03
梅花 Ⅴ_01_04
梅花 Ⅴ_01_05

もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのとこも対面不相識なるべし、相逢未拈出なるべきがゆゑに。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。直に梅花眼睛を開明なるべし、さらにもとむるやみね。

先師古仏云、
明々歴々、     《明々歴々たり、
梅花影裏休相覓    梅花影裏に相覓むること休みね。
為雨為雲自古今    雨を為し雲為すこと古今よりす、
古今寥々有何極    古今寥々たり何の極まりか有らん》

しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。行雲行雨は梅花の千曲万重色なり、千功徳なり。自古今は梅花なり。梅花を『古今』と称ずるなり。

古来、法演禅師いはく、
朔風和雪振渓林   《朔風雪に和して渓林に振ひ、  
万物潜蔵恨不深    万物潜し蔵るること恨み深からず。
唯有嶺梅多意気    唯嶺の梅のみ有りて意気多し、
臘前吐出歳寒心    臘前に吐出す歳寒の心》

しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。はかりしりぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり。

太原孚上座、頌悟道云《悟道を頌するに云く》、
憶昔当初未悟時、  《憶昔当初未悟の時、    
一声画角一声悲    一声の画角一声悲なり。
如今枕上無閑夢    如今枕上閑なる夢なし、
一任梅花大少吹    一任す梅花大少に吹くことを》

孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」
言わんとしてる事はですね、そこにも有りますけども、誰でもが普通に経験してる事だと思いますが、此処にも、臥龍梅と言う名前が付けられた、本堂の前に紅梅がこうあります。ちょっと暗くなったから、花が見えづらいかも知れませんが、咲いております。そう言う、皆さんが梅の花の咲いている所に、こう通りかかって、こうやってやると、梅の花が、枝も勿論でしょうけど、その他の事も全てでしょうけども、代表して梅の花が、こうやって咲いている所に目を向けるとその通りに見えるという事が、ここで取り上げられてる事なんですね。

だから、こう言う様な事は一般にですね、何でそんな事が、その問題になるかって言われる位、あまりにも平凡な事に違いないんですね。だけども、仏道と言う、仏道、仏様の教えって言うものは、そう言う誰しもが、日常生活で使っている上の話なんですね。これはとっても考えてみれば、大事な事でしょう。私達が日常生活無縁の、使ってない世界の話を取り上げて、何かする様な仏道だったら、一般の人に全く必要ないんじゃないですか、最初から。毎日誰でもがその様に使っている中に、私達がもう一度見直さなければならない大切な事があると言う事なんでしょう。


「もしおのづから自魔きたりて、」ってありますが、自分の中で、ふっと何か自分流のものの捉え方、見方、考え方あるいは取り扱い、そう言う様なものがふっと起きると、目と梅の花の関係においてですね、そこに余分なものが、こう生まれてくるんですね。だけども、これが本当に自魔と言われる様なものが無い時には、自ずから眼は梅に触れると、いきなりその通りの事がそこに展開されます。まあ、段階を追って話をすれば、梅の花に向かうと見えるって言う風に皆さんは使っております。だけども、梅の花が見えるって言うんだけども、本当はそんな気配はない。

どういう事かって言うとですね、仮に今皆さんが目を閉じてですよ、目をパッと開けて見てください。パッと。実験だからやってみて下さい。目を閉じて、目を開けて下さい。どう言う風になってますか、皆さん方、その時。目を開けたら見えたって言うんですか。これ普通そう言う表現してるでしょ。目を閉じてて、目を開けたら見えたって言うんでしょう。じゃあもっと丁寧に話をしたら、自分で何か見たらしい気配がありますか。目を開けただけでしょうが。開けたらもうあるんでしょう、イキナリ。開けた瞬間にあるんでしょう。見るって言う様な気配は全く人の上に無いはずだ。そう言う事が、仏道の上で問われてるんですね、日常の上で、私達は。

それが修行なんですよ。修行するってそう言う事なのね。あの坐禅の中でもよく使われておりますね。どれが最初かしりませんが、この調えるっていうんですね。目をパッと開けた途端にですね、その目の前に咲いている梅の姿を、私達は何にも手をつけないのに、その通りにきちっと乱れる事なくその通りに、梅の花の通りに、この身体が頂く事が出来てる、それを私達は調身といいます。身を調えると言います。

ところが一般に坐禅の時に身を調えるって言うのは、そう言う風には受け取ってません。どこかを手をつけて、直して行くって言う風に、調えるって言う字を読んでおります。心だってそうです。本当に何もしないのに、梅の花の所に行ったら、否応なしに梅の花の様に全部なります。これ、自魔のない証拠です。自分の中に余分なもの一切ない時の様子です。

だから坐禅は大安楽の法門なんでしょう。イキナリその事で完成してる。手をつけなくても。何処にも、その、何かしなければこれからちゃんとしないじゃないかって言う気配は一切ないほど、きちっとした事してるんですね。だから、菩提を究尽するの道とあります。本当の、その今の在り様を徹底、知り尽くす唯一の道ですよね。その事から一つも離れてませんから、その事実に触れたら、否応なし誰でも、その事実の通りになる様になってます。

ましてや坐禅は習禅にあらず、練習をしてそう言う風な見方をするのではない。何回もやったら、そう言う風に見える様になる訳じゃない。必ず、皆さんが見てる時そうでしょう。イキナリ一回こっきりでしょう。その時、必ず今やってる見方しか生涯生きててもないですよ。前のものを使って見るって言う事はありません。いつも今の眼の様子だけで、その通り見える様になってる。習い覚えて段々はっきり見えるとか、よく分かる様になる、そう言う様な事ありませんね。ここでは梅花は仏様の目です。眼睛。

「梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし」梅の花とお釈迦様の目の様子が別だって考えてる人がいる。よくよく見てごらん。「このほかに何法」ですね、何か法らしいものですね。「梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。」何をもって眼というのか。眼は梅の花を借りて、梅の花が見えるのを眼の様子と言うんでしょう。だから、眼だけ有って、皆さん方が眼が如何いうものかを知る事は出来ません。眼の対象となるものに触れると、見えると言う現象がありますから、それに拠って、眼は物を見る力が有るって事を始めて知るのでしょう。

要するに、目と物は別々でないと言いたいのですね。その証拠に、皆さんが日常生活、こうものが見えてる時に、眼で物が今見えてるって、誰もそんな事言いません。眼なんかすっかり忘れてます。この見えてる事自体、最初から眼の様子なんですね。それ以外に眼の様子は無いでしょう。だけど、学問をし、色々教えられるもんだから、人間に目と言うものがあって、それが物に触れると見える様になってるって、そう言う働きを持ったものを人間が持ってるから、見えるって教えられたんですね。

だけども、これもよくよく考えてみるとですね、そんな事を学問もしない、誰からも教えられなくても、生まれてから後ですよ、何時自分が物を見たか知らない時から物が見えてるんですよね、小さい時。幼い時自分が物を見てるなんて誰も知りませんよね。何時ごろから、自分が物を見てるって言う様な事が、認識できる様になるんでしょうかね。或いは、もう少しよく使われるのは、これを私だと思う様になったのは何時ごろからでしょうかね。私がいるなんて、生まれて来た子供達は知らないんですよね。これが世の中に出て来たんだけれども、これが私だなんて、そう言う認識は全くなしに生活してる。

じゃ、認識が無いから、物に触れた時に見えないのかって、あるいはおっぱい吸った時に味がしないのかって。おっぱい吸ってるって認識が無くてもですよ、味はちゃんとするんですよ。だけどそれは認識の上で、これはおっぱいの味だって言う風に自覚はしてないですね。そう言う認識はしてない。だけども、間違いなく体感として、水を飲む時とおっぱいを飲む時、身体がちゃーんと違った反応してる。そう言う事は全部人が作ったのでないって言う事の証でしょう。本来のものって言うのは人が作ったんじゃない。

音がすると聞こえるって言うけど、本当に音がしたら聞こえるんじゃなくて、何だろう、音がしたら聞こえるんじゃないんですよね。コン!(机を打つ)わかりますかね、そう言うの。常識の勉強して来た人だと、中々わからないですよね。コン!確かに音がしなくちゃ聞こえないでしょう。コン!だけども、コン!なんだろうね、これね。コン!どうなってるのかね。コン!こう言うのだってコン!耳を持って聞くような人は一人もいませんよね。カチって言うだけですよね。

だから、無眼耳鼻舌身意と般若心経にある。眼も耳も鼻も口も、舌も無いと書いてある。無眼耳鼻舌身意。本当にそう言う働きしてるんじゃないですか。ご飯食べたって、舌が味を味わっているって言う様な事じゃなくて、味がするばかりで、舌なんか何処にもない。痛いーって言ったて身体がある訳じゃない。身体認めてる訳じゃない。痛いって言うだけで、そう言うな事行われてる。そう言うに般若心経の書いてある。無眼耳鼻舌身意、所謂人間が認めている様な、そう言うものが、実際に活動してる時に、何処にも見当たらないと言うのでしょう。

それは眼って言ったら、梅の花なんです。ここで道元禅師がおっしゃってる様に、眼と言ったら、御釈迦さんの眼はどんな眼だったのか、梅の花なんです。「そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、」書いてあります。梅の花が見えてる事の他に、眼って言うのをどっか求めたら、それこそ「いづれのとこも対面不相識なるべし」出会う事はないとある。眼と梅の花が出会うとですね、ただ、梅の花が咲いている様子だけがそこに出てくる様になってる。それを本当に梅の花に出会ってる時の様子というのですね。その時は眼らしいものは無い。

その眼らしいものが無くて、梅の花の様子だけがある事を、私達の眼の様子と言うのでしょう。「相逢未拈出」本当にそうです。目と物が出会ったに違いないでしょう。だけど眼らしいものは何処にも出て来ないよ。出て来るのは、ただ梅の花が咲いている様子だけがある。「今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。」一々が公のものなんでしょう。

だって、私が梅の花を見てるっていう風な風に、梅の花は見えた事がない。今の梅の花を見てても。私が梅の花を見てるって言う風に、梅の花は見えない。ただ、本当に誰が梅の花に触れても、その通りに見える。それ位無私公平です。争い事が一つもない。そんな穏やかな生活がみんな出来てる。もしそう言う自分の在り様に気づいたら、人は変わるでしょう。そうでなければ、一般に言う様に、自分を立てておいて、そして今の自分を見て、どこかを修正して、もっと素晴しい自分にしていくって言う様な修行しかないんですよね。それは仏道とは違うんです。お釈迦様が本当に自分の真相を、自分の本当の在り様に気づいた内容とは違うんですね、それは。人為的に、人が作っていく在り様でしょ。

何故そう言う事が、その言われるかって、先ほども挙げた様に、人が生まれて暫く、こう生活してる処を見てもですね、振返ってみて、人らしいものが一切ない、分け隔てるものが一切ない。本当にうまくピターっと整ってるのでしょう。仲良く生活が出来てるのでしょう、争わずに。どんな事にも。そうやって大きくなって来たんですね。大きくなって来る間に、何時か知りませんが、これは私、それ以外は他のものって言う風に分け始めて、そしてお菓子を分けてもですね、大きい方をパッと取って、そうしたりですね、一つずつ分けたのを、二つ掠め取ったりして喧嘩する訳です。それは私のだなんて。

そのもちょっと大きな事言えば、世界の混乱もそうでしょ。わが国の範囲のものだって言って、海の上にも線を引き、空にも線を引き、地球の大地の上にも線を引いて境界線を作って、自国の利益の為に、お互いが力を出しあって、争って、それを確保する。まさに私達がすこし大きくなって自分て言うものを認めたのと何ら変わらない事ですよ。それが世界を乱すんですよ。

今こうやって生活してても、毎日の中で問題が起きる時は、必ずそこに自分で一線を引く、引いて相手が言ってる事が気に入るとか入らないとか、言う様なことが自分の上に出て来るから、そう言う処からものの在り方を学ぶって言う事が、それが一般の教えですよ。仏道は違いますね、根源です。元がどうなってるかって、一番最初にどうなってるか、そこを見てます。

こうやって、コン!(机を打つ)必ず一緒になるように出来てるんですね。否応なしに。コン!こうやってやったら、音と一緒になれるようになってる。どう言う風に聞いたら一緒になれるかってって一切使わなくても、音がしたらその通り、必ずそれ以外の聞こえ方がしない様に出来てる。自魔、自分の中に障りになる様なものが起きないんです。そう言うのを本当に体験して伝えて来られたのは、お釈迦様じゃないですか。それでここに、「瞿曇の眼睛」って言う様な事が出て来るんでしょう。仏様の眼。仏様の眼って言うのは、そう言う時の私達の本当の在り様の事を、代表して挙げてるんですよね。

「直に梅花眼睛を開明なるべし、」いいでしょう、直にって。時間も距離も一切ないじゃない。これ修行するのに、最高の修行の仕方でしょう。時間も距離も何もない。いきなりコン!ちゃんとその事が出来る様になってる。どうしたら、そう言う風にうまくいくかって一切そんな事要らない。直って言うのは、間へ何も入らない。直(チョク)って言うのはそう。イキナリと言う意味でしょう。あの、イキナリって言うと、時間がかかるんですね。

しょうがない、その位にしか言い表し様がないから、その位で我慢してる訳です。だけどこうやって、ガー!(大声で、机も打つ)って言った時に、こう言うのイキナリとは言わないでしょう、この事実をみてると。そんなもの一切なしで、ガー!っと言うだけですよ。そう言う消息が、本当は直下承当なんでしょう。イキナリその事がその通りに受け取れる様に出来てる。修行の在り様です。そう言う処を見ると、「梅花眼睛を開明なるべし」はっきりしてるって言う事でしょう。

「さらにもとむるやみね。」とありますが、もうその他に何にもする用ないじゃないですか。それが本当に、梅の花を愛ずる時の在り様なんじゃないですか。ところが人間の梅の花を愛ずるってのは、綺麗に咲いてるねとか、色んなそう言う風な思慮分別を、いっぱい自分の中で起こすから、そう言う事を梅の花を愛ずるって言う風に捉えてるんです。よく考えてみると、それは梅の花を見てるんじゃなくて、皆考え方の上の話であって、実際の梅の花とは全く離れた話でしょう。

自分の中を見て下さい。頭の中で梅の花の事を色々考えてる時に、実際そこに咲いている梅の花の前に居ながらですよ、梅の花を本当に観察するとか、触れるとか、匂いをかぐとか、形がどうなってる、色がどうだとかって言う様な事やってる人はいません。出来ないんです、こっちの頭の中でやってる事があると。それ位事実から離れてるんだけども、その事さえも知らないですね。本当に目の前にある梅の花を相手にしてると思ってるんです、ここで(頭)。違いますよ、全く。この頭の中で取り上げてる話だけですよ。それを止めると、ここにある様に、はっきりするんです。そう言う事が、お釈迦様が歩まれた道でしょう。まあそれが、ちょっとそこにひとくだり、一下りです。そう言う事が大体書いてあるんです、ここに。

後は、道元禅師、漢詩もお好きなもんだから、こうやって色々な方々、歌を詠まれた漢文をですね、取り上げて味わっておられるんでしょう。私達は漢文に不慣れなもんだから、中々漢詩をこうやって出して下さっても、味わいを十分に味わう力が無いと言う事があるかも知れません。

如浄禅師の作られたものでしょう。「先師古仏云、明々歴々、(明々歴々たり)」一点の疑い様がないというんでしょう。梅の花の時に、霊雲の話を出しても、ちょっとずれるかも知れませんが、霊雲の志勤禅師が桃の花の咲いている処で悟りを開いた。桃花をみて。明々歴々なんですよ、明々歴々。どの位明々歴々かったら、すっかり自分を忘れちゃうんですよね。

梅の花を、桃の花の咲いている畑の中に、こうやって佇んでいて、すっかり自分を忘れて、桃の花の様子だけになってしまう位。それまではやっぱり、桃の花は対象物なんですよ、自分と。向こうにある。それを眺めているって言う気配が、人にはあるでしょうね。それが眺めるんじゃなくて、自分らしいものがすっかり消えると、桃の花の様子だけになる。そう言う体験があるもんだから、お悟りを開いたと言う事になるのでしょう。そう言う事が、次の句に反映するんでしょう。

「梅花影裏休相覓(梅花影裏に相覓むること休みね。)」下の方に(脚注)色々書いてありますが、こんな説明、理由は一切要らないんじゃないですか。実際自分の目でやってみればわかるでしょ。「梅花は自己の眼睛である。瞿曇の眼睛であるから、だから梅の花の前にあると梅の花が見える」なんて、そんな屁理屈一切ないんじゃないですか。無いでしょう、そんなもの。

なぜか梅の花の前に行くと、梅の花がその通りあるんじゃん。だけど、どこかしら自分が見てるらしい気配が自分の中に残るって言う事が、もう一つ問題なんでしょう。本当に梅の花が見えてる時、人間て自分らしいものは一切ないと思いますよ。日常茶飯、色んな処で注意深く過ごしてみて下さい。我を忘れてるんですよ。

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり、とありますけど、初めから、自分らしいものはすっかり無しで生活してる。その時の自分の様子に学ぶ、と言う事が説かれてるんですよね。何かした拍子に自分らしいものふっと出て、そして対抗する。それまでは自分らしいもの、殆ど人は、生活の中で見てませんよ。うまく行っている時は正しく、自分らしいものは本当に顔を出さない。初めからそう言う風に、自分らしいもの無い様子が人にはあります。そこの処に参じてほしいんです。そう言う生活をしてる。

「為雨為雲自古今(雨を為し雲為すこと古今よりす、)」まあそれは風景の様子でいいでしょう。「古今寥々有何極 (古今寥々たり何の極まりか有らん)」こうやって生活をしてる、眼と物が触れ合いながら生活してるけど、その様子を見て下さい。雨にもなれば雲にもなる。そしてずーっと、何時始まって何時止まるともなく、この眼と物との関係がずーっと繰り広げられて、もう疲れちゃってみる事が出来ない、嫌だなとかって言う風に、眼はならない。病気をして眼が、白内障とか失明すれば別でしょうが、そうでない限りは眼はですね、こんなに沢山みるのは嫌になったって、今日は止めだって言う様な事はない。

本当に一日中の様子を見たって、此処にある様に「有何極 (何の極まりか有らん)」幾らでも入るんです。幾ら見ても、一杯になって、もうこれ以上は見る事が出来ないって言う様な眼はない。何処に見たものが入るかわからない。でもいつでも、イキナリきちっと生活が出来る。用意をしてなくたって、其処行ったら、その通りの事がすぐ出来る。準備していなければ、物がちゃんと見えないって言う様な事は眼にはない。もしそんな眼だったら役に立たない。